2014年11月10日月曜日


●五月の「聖母月」考●


 五月はカトリック教会では「聖母マリア」にささげられた「聖母月」です。なぜ、五月が「聖母月」になったのか、聖母と五月の関係を、ある植物の学名にヒントをもらって、考えてみました。

 ◆植物図鑑◆
 ぼくは植物図鑑を3,4種類使っています。平凡社の大図鑑、保育社の図鑑シリーズのものがメインですが、この二種類は専門家も同定に使う図鑑ですが、保育社からは、一般の植物愛好家向けのものも出されています。北隆館から出されている「牧野植物図鑑」は絵がよくないのが欠点です。ほかにも大図鑑はいくつかあるのですが、基本的には上にあげた二つが双璧でしょう。
 さて、ここで話題にするのは、保育社から一般愛好家向けに出ている植物図鑑です。タイトルは『野草図鑑』(初版1984年)。山野にふつうに見られる野草を集めたものです。これは、長田武正氏の同定と解説、奥さんの長田喜美子さんの写真という、珍しい夫婦合作の図鑑です。実際には八冊を全部を持ち歩くことは難しく、簡単に描いたスケッチや撮ってきた写真や特徴のメモ書きをもとにして、家で同定するほかありません。けれども、ここには、夫婦の植物をもっともっとよく知ってほしいという切実な願いがあふれています。好著、と言えばいいでしょうか。全八巻あるすべての巻末に、テーマごとに植物学についての解説がわかりやすく書かれているのも、好感が持てます。別冊として索引と植物用語を解説のある小冊子が付属します。
 第一巻「つる植物の巻」を開いて、その巻末を見てみると、そこには「植物入門入門観察講座1」として、葉の形態についての説明がなされています。さらにその後ろには、「植物学名の話」として、リンネによって創意・工夫された二名法や種小名のラテン語などが解説されているのです。

 本文では、各植物名にそのラテン語学名が併記され、その読み方がカタカナで書かれているだけでなく、種小名のもつ意味が簡単に書かれています。現在では、一般愛好家向けであっても、和名、別名に、学名が併記されている図鑑はごくふつうになりましたが、当時として画期的なものでした。
 と、ここまでほめあげておいて、次は問題となった学名をあげつらうことになるのですが、けれども、その学名の訳語のまちがいこそが、今回のお話しのきっかけをつくってくれたものだったのです。



 ◆学名の意味にあったまちがいがきっかけ◆

 それは、この『野草図鑑』の第4巻「タンポポの巻」でした。そこには「アキノキリンソウ」の学名について、こんな風に書かれていたのです。
Solidago virga-aurea var. asiatica ソリダゴ ウィルカアウレア(黄金の乙女) 変種 アシアティカ(アジアの)(『野草図鑑』④「たんぽぽの巻」P85)
 これは初版でのことです。あるいは、後に訂正されたかも知れませんが、その点については確認していません。最近は書店でもまったく見かけませんので、あるいは絶版になったのかも知れません。それはさておき、いずれにしてもこのラテン語学名の訳語が、今回のお話しのいちばんのポイントなのです。 つまり、この種小名“virga-aurea”の訳語に問題があったのです。
 この図鑑では、「黄金の乙女」と訳していますが、これは明らかなまちがい。実際は「黄金の笏」という意味です。「笏」とは王などが手に持つ権力や権威を示す象徴としての棒のようなものを言います。そのまちがいは、この図鑑を見た当初にすぐに気づいたのですが、ずっと今まで、五月と「聖母月」との結びつきのヒントにはならないままでいました。この間から、五月を聖母月にするには何かいわれがあったのだろうか? という疑問が、急に心を占めるようになって、はっと、このまちがいのことを思い出したのです。
 訳語のまちがいが、ぼくにあるひらめきを与えたのです。


 ◆「アキノキリンソウ」と「アキノキリンソウ属」◆


 本題に入る前に、この花のこと、学名のことをちょっと書いておきましょう。
 日本でふつうに見られる「アキノキリンソウ」はヨーロッパ北西部から大ブリテン島にかけて山野にふつうに見られる「ヨーロッパアキノキリンソウ」を母種としています。変種名は、そのアジア版であることを説明しているのです。母種から若干の変異をとげたもの、と言うのが変種名の意味です。さて、その母種の学名、“Solidago virga-aurea”は、ヨーロッパでも古くから知られた植物でした。属名と種小名による二名法を開発した、かのリンネ自身がこの学名を付していることからも、そのことがわかります。
 今、属名と言いましたが、この「属名」は“Solidago(ソリダゴ)”、日本語学名は「アキノキリンソウ属」です。この属の植物は北米大陸にかなりの種が分布しているようです。そのうちの二種類は日本でも有名ですね。
 その理由は、太平洋戦争後、米軍によって日本にもたらされた外来植物として、他の在来植物を駆逐しながら日本で大繁茂してしまったからです。今では、日本国内いたるところで、ふつうに見られる雑草となってしまっています。その代表格が、やはり黄色い花を密生するセイタカアワダチソウ(学名 Solidago Altissima ソリダゴ アルティッシマ)と、オオアワダチソウ(学名 Solidago gigantea var. leiophylla ソリダゴ ギガンテア レイオフィルラ)です。頭花の密生する様子が遠目には黄色の泡を立てたように見えると言うことから、この名がつけられたものです。、秋の野のあちこちに黄色い花を咲かせます。
 なお、「アルティッシマ」は「最も高い」という意味で、音楽用語の「alto(あると)」でおなじみの“altus(アルトゥス)”=「高い」、「深い」などの意味=の形容詞の最上級、というわけです。一方の「ギガンテア」は英語の“giant(ジャイアント)”と同じ意味です。なお、その変種名として“var.”の後についている「レイオフィルラ」は「滑らかな葉をもった」という意味です。


 ◆“virgo”=処女=と、“virga”=若枝=◆


 さて、この種小名に間違った訳をつけたことについては、ラテン語をいくらか知っている人ならだれでも、大きな理由があったということがすぐにわかります。ほかでもありません。とてもよく似た言葉があるからです。
それは、“virgo(ウィルゴ)”という名詞です。これこそが「乙女」の意味の言葉なのです。英語のァージン“virgin”に当たるものです(というより語源なのですが)。 と言えばもうわかるでしょう。
 アキノキリンソウの種小名の、“virga-aurea”の“virga(ウィルガ)”とは、ほんの一字違いなのです。しかも、この“virga”の、「笏」の意味は派生的なもので、もともとは「若枝」「挿し木」などの意味をもっている言葉なのです。詳しく書けば、「今年新しく伸びた、緑の葉の新芽におおわれた、鮮度の高い枝」ということになります。
 この名詞は“viere(ウィエーレ)”=「緑色をしている、新鮮である、まだ一度も使われていない状態である」などの意味をもつ=という動詞から派生したものです。これは想像にすぎませんが、「乙女」の意味をもつ“virgo”もまた、この動詞にかかわるものではないでしょうか。「新鮮で、未使用である」という意味も含まれているからです 。また、この動詞からは「緑の」、「若々しい」と言う意味の“virens(ウィーレンス)”や“viridis(ウィリディス)”という形容詞も派生しています。「緑の枝」が萌え出す時節にふさわしい言葉です。

 つまり、「乙女」の意味の“virgo”も「緑の新芽をもった若枝」の“virga”も同根の単語だと考えると、「聖母月」が五月とされてきた意味が分かるように思われるのです。五月はヨーロッパでは、新しい枝が伸び、新芽が伸び、あるいは花のつぼみを膨らませる季節です。“virga”の五月を、“virgo”の五月と連想し、関連づけようとするのは、人間にふつうの心理なのではないでしょうか? 日本では「聖母マリア」という呼び方がふつうですが、ヨーロッパでは「ノートルダーム」という呼び名や「乙女マリア(Virgin Mary)」などのような呼称が一般的ですから、“virgo”=乙女マリアを連想するのは不思議なことではありません。

 ◆ヨーロッパの二元論的発想と日本の一元的感性◆

 これは余談ですが、あるいは、ヨーロッパでは、「聖母マリア=神の母」であることと「乙女マリア=聖処女」であることとは、一体のものとして認識することにある種の抵抗があるのかも知れません。一種の使い分けをしているような感じを見受けます。日本人の場合はあるいは、最初から「乙女マリア」という認識そのものが欠落してしまう傾向にあるのでしょうか? 隠れキリシタンがなぞらえたという「慈母観音」には、「聖処女」のイメージはまったく付与されていませんから、案外このあたりに、ヨーロッパと日本との女性観の違いが現れているのかも知れませんね。 もともと日本人は女性の処女性を大して重要視しておらず、むしろ生産との深い関連を感じさせる母性のほうにこそ、女性の本質を見ようとしていたのかも知れません。
 ヨーロッパでは、「母性」と「処女性」とを、「永遠の乙女にして神の母マリア」としてどちらかというと二元的なものの統一体を観念としてとらえるのに対して、日本では、あるいは二元的なものの統一という発想は、生まれ得ないものだったのかも知れません。二元的なものの統一ではなく、二元的なものの一方を他方に無媒介的に吸収してしまうか、最初から統一体とすることをあきらめて、一方を完全に切り捨てて平気でいられる、という感性をもっているのかもしれません。

 このことは、日本人の自然観にも大きな問題をはらませることになった、とも言えるでしょう。対立項となる二つのものの闘争と統一あるいは止揚という発想がないために、ずるずると自然破壊が連続する、ということにおいて。
●「十字架の道行き」と花の名●



 キリスト教の「復活祭」は毎年変わりますが、だいたい4月に迎えます。遅くとも5月初旬、早くとも三月下旬。そしてその前の金曜日は「聖金曜日」で、イエスが十字架上で亡くなられたことを偲ぶ日であります。イエスが十字架上で亡くなられる前には、十字架を自ら背負わされて、カルワリオへの道を歩まれました。「カルワリオ(Calvario)」はラテン語で、「されこうべ、頭蓋骨の地」の意味です。正式には“Calvariae locus(カルワリアエ ロクス)”と言います。ヘブライ語では「ゴルゴタ」。

 さて、この道行きの途上で、イエスはさる婦人に出会います。
 このことについては、『新約聖書』のいずれにも書かれていません。ただ、四旬節の間に行われる「十字架の道行き」の祈りには、この婦人のことが現れています。この「十字架の道行き」は全部で15の場面に分けられています。その第六番目。


 「イエス、ベロニカから布を受け取る」という場面です。
 ここで、血だらけになっているイエスの顔をぬぐいます。けれども、ぐいぐいと力強くぬぐうのではなく、そっと顔に押し当てるように、その血を布に吸わせます。あまりにも痛々しいその顔には、そっと当てるほか方法はなかったのでしょう。
 こうして、「イエスの御顔のままに御血でかたどった聖布」=「ベロニカの布」がどこかに存在するというのが、キリスト教の伝承として残りました。あくまでもイエスにまつわる伝承の域を抜けるものではありませんが、まことしやかに信じられてきたことも事実です。「十字架の道行き」が始まったのはずっと後の時代ですから、そのとき、作られた物語であったのかも知れません。




 ところで、ここは「自然誌」がメイン・テーマですから、その本題に入りましょう。



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ミヤマクワガタ(クワガタソウ属/ゴマノハグサ科、尾瀬ヶ原)



 さて、この伝承のベロニカにちなんだ属名をもつ植物があるのです。とはいえ、日本語で属名を書いても、なんにもなりません。ここはラテン語属名を書かねば、話が続かないのです。
 それが、あのご婦人の名前がつけられた「ベロニカ属」なのです。日本語表記には反映されていませんが、その綴りは“veronica”。ラテン語読みでは「ウェロニカ」になるのですが、英語読みすると「ヴェロニカ」となります。クワガタソウ属は“veronica”なのです。ヨーロッパのクワガタソウ属の花に、血でかたどったイエスの顔を思わせるものがあるようですが、ぼくは残念ながらその花がどれであるかを知りません。
 手元にあるイギリスの植物誌“Flora Britanica(フローラ・ブリタニカ)”などで見る限り、ヨーロッパには、ここに写真を載せている「ミヤマクワガタ」と同種のものはないようです。よく似たものに、“veronica montana(ウェロニカ・モンタナ)”がありますが。


 ついでながら、クワガタソウ属の花を英語では“speedwell(スピードウェル)”と呼びます。この場合の“speed”は「スピード、速さ」の意味ではなくて、これから旅立つ人に手向けるときに使う言葉です。“God speed you !”などと使います。「神のご加護を祈ります」とか「ご成功を祈ります!」と言うほどの意味でしょうか。
 ヨーロッパの代表的な種には、“Germander Speedwell(ジャーマンダー・スピードウェル)”というのがあり、アイルランドでは、この花をその衣服に縫いつけてその人の幸福を願うという習慣があったそうです。ヨーロッパでは別名“Bird's eye”(「鳥の目」)や、“Eye of the Child Jesus”(「幼きイエスの目」)、“Farewll(フェアウェル)”(「さようなら」)というものなどがあります。日本でよく見られる「オオイヌノフグリ」によく似た真っ青な花を咲かせますので、和名では、「ヨーロッパイヌノフグリ」とでも呼べばいいでしょうか。 でも、「イヌノフグリ」は「犬の殖栗(ふぐり)」、つまり「犬の陰嚢」という意味の名前です。日本とヨーロッパのネーミングの感覚の、この天と地ほどの違いは、どこから来たのでしょうか?
 花の青さを、「天上の青さ」と見る感覚が、この花が幸運をもたらすことを思わせたのでしょうか? ヨーロッパでは、花の青さは空の青さ、天の青さになぞらえられます。日本の高山に咲くミヤマハナシノブという花の母種はヨーロッパにあるのですが、その学名は、天の青さを思わせる名になっています。“Polemonium caeruleum(ポレモニウム・カエルレウム)”。“Polemonium”は和名では「ハナシノブ属」です。“caeruleum”は「天の」という意味です。この学名もまた、花の色が天の空の色を思わせることによります。
 ハナシノブは英語名は、“Jacob's Ladder(ジェイコブズ・ラダー)”、つまり「ヤコブのはしご」と言います。ハナシノブの葉の様子がはしごに似ていることから名づけられました。この「「ヤコブのはしご」は、『旧約聖書』の『創世記』28章にある「ヤコブの夢」に出てくるはしごにちなんで名づけられたものです。



 「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって延びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」(『創世記』28章12節)



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ミヤマハナシノブ(北岳/白根御池付近)




 日本名「オオイヌフフグリ」は、学名では“Veronica persica(ウェロニカ・ペルシカ)”と言います。“persica”は「ペルシャの」という意味ですから、「ペルシャからやってきた花」と言う認識だったのです。日本では明治時代半ば頃に、日本にも存在することが確認されました。ヨーロッパからの輸入品に混じって、明治の早い時期に日本にやってきたようです。日本在来の「イヌノフグリ」は、この「オオイヌノフグリ」の蔓延によって、絶滅寸前になっています。外来種ですが、日本ではいたるところに見られます。特に畑地の近辺、あるいは休耕田、放棄された田畑にはふつうに見られますし、春一早く花を咲かせますので、日本ではこの花は春を告げる花の一つになっています。 

2014年11月3日月曜日

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ユリ科の花:ヤマユリ=かつては箱根を代表する花だった。箱根恩賜公園で/撮影:水尾 一郎

●ユリ科の花にはいろいろなものがある●

 ◆「ユリ科」と言えばやはり、「ユリ」◆

 「ユリ」と言えば、「白百合」、「小百合」などの言葉が浮かんでくるように、「ユリ科」の花の代表は、やはり、「ユリ」。と言っても、ただ「ユリ」という名の「ユリ」はない。
 いずれも、 「○○ユリ」と名づけられている。たとえばこんなユリ。
 クルマユリ、コオニユリ、スカシユリ、ヒメサユリなどは、白くないユリ。白いユリとしていちばんポピュラーなのが、テッポウユリ。これは種子島から南、琉球諸島に自生するユリで、シーボルトが球根を持ち帰り、瞬く間にヨーロッパの白いユリ市場を席巻した、というエピソードのあるユリである。
 それまでは、ヨーロッパでは「ユリ」と言えば、小振りで愛らしいあるひとつの「ユリ」だけしかなかったのが、この白いテッポウユリのおかげで、もとからあった「ユリlは「マドンナリリー」と名を改めることになってしまった。


 けれども、この「マドンナリリー」は、その名の通り、聖母マリアのユリとされ、バチカン市国の国花となっているもの。テッポウユリは豪華な感じがあるので、キリスト教の最大のお祝いである、「イースター(復活祭)」を飾るものとして、用いられるようになったため、ヨーロッパではこれを「イースターリリー」と呼ぶ。
 「マドンナリリー」は愛らしく清楚で控えめなおもむきをもちながら、高貴な気分をただよさせているので、聖母のお祝いを中心に今も用いられることがある。けれどもこの「マドンナリリー」の最大の弱点は、かなり温度管理が難しく、かんたんに栽培できないこと。イタリアや南仏は「よし」としても、球根栽培の盛んなオランダなど、ヨーロッパの北半分では難しい。それにひきかえ、琉球などの温暖な地方に産しながらも、テッポウユリは、オランダでもそれほど困難なく栽培できるために、急速にヨーロッパの主流を占める「白いユリ」となった。


 白いユリというわけではないが、テッポウユリよりもさらに大きな白地のユリ、「ヤマユリ」が日本には産する。純白色の地に、黄色の帯と、鮮紅色ないし紅紫色の斑点が無数についている花冠。真っ白ではないところが、聖なる用途にはあまり使われない理由なのだろうか、とにかく背丈も花柄も大きい。
 たとえば、大井川鉄道で、南アルプスのふもとの山里に進んでいくと、農家の庭先、切り通しの斜面、あちらこちらに、背の高い、株立ちしたいくつもの花茎の先に、さらに二つ、三つと枝分かれして大きな花を咲かせている。
 あるいは、東武日光線の今市市駅の手前当たりだったろうか、その辺りから、線路沿いにこの花が咲くのが見られる。真夏の高原の花、とでも言おうか。箱根の強羅一帯は、この花の大群生地だったという。今はその面影もなく、国道一号沿いや、恩賜公園の中などに、ちらほら見られるだけになった。丹沢もその数はかなり減ってしまった。


 ◆こんなのもまた「ユリ科」です◆

 ユリ科の仲間には、我々の身近にあるものも含まれる。
 ネギの類がいずれもユリ科。ネギ、ニンニク、ニラなどが身近な野菜。もっともこれらは日本原産ではなく、どれも中国からわたってきた。日本原産としては、ギョウジャニンニクやノビルが自生する。
 ユリ科の野菜では、ほかにアスパラガスがある。ヨーロッパ原産の野生のアスパラガスはかつては牛馬の好む食物だったという。ギリシア時代には薬用植物とされていたようで、学名にも「officinalisオフィキナーリス」とあって、これは「薬用の」という意味の形容詞。日本には江戸時代末期に観賞用のものがオランダから渡来したとある。食用にするものは明治4年に「北海道開拓使」の庭に植えられたのが最初、とされる。


 最近人気のあるカタクリもユリ科。カタクリについては、このところ熱心なファンが急増していて、蘊蓄を傾けたい御仁も少なくなさそう。で、その人たちにカタクリの講釈は任せておくことにしよう。

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ユリ科の花:カタクリもユリ科。花被片は3の倍数の6枚。おしべ6つ、めしべの柱頭は三裂する。子房は3室に分かれていて、各室に9個ずつの種子が入っている。


 ◆ユリ科の植物は「三数性」が支配する◆

 ユリ科の植物は、「単子葉植物」に分類される。その名のとおり、子葉の数が1枚。葉は見るからに「双子葉植物」とは違い、平行脈をつくる。割合に光沢もあって、葉の縁はすっとしている。つまりぎざぎざや切れ込みのないものがほとんど。切れ込みのある葉を持つ単子葉類には、サトイモ科かヤマノイモ科がある。ユリ科の葉はいずれも葉の縁にぎざぎざや切れ込みはない。
 また、花は3か3の倍数で構成される。めしべが一個でも、その先が3つに分かれていたり、子房が3室になっていたりする。もちろん、おしべは6個というのが最も多い。
 花びらを、単子葉植物では「花被片」と呼び、たとえば、アヤメなどの仲間では、外側に大きく垂れている外花被片3枚、内側にすくっと立っている内花被片3枚とで構成される。花柱も先端部分は3つに分かれていて、内花被片より大きな裂片をその柱頭部から開いている。


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アヤメ科の花:ノハナショウブ。花被片の中央奥に黄色い部分があることに注目。花菖蒲はこの花から品種改良された。そのため、野の花菖蒲という意味の「ノハナショウブ」と名づけられた。学名も、それを示しているが、そのことは以前に書いた。箱根湿生花園で。/撮影=水尾 一郎


 先にあげたヤマユリでは、花被片6枚、おしべ6個。花被片6枚と言っても、わずかながら外側につく3枚(外花被片)と内側につく3枚(内花被片)とに分けられる。めしべは花柱ひとつ。柱頭は分かれてはいないが、子房の中は3室に分かれている。

 世の中に真っ白な美しい花は少なくないけれども、ユリの白い花が、たとえばイースターや聖母マリアの祝日を飾る花として珍重されたのは、実はこの三数性の支配する花の持つ聖なる力を信じるところからだったに違いない。「三」には神秘の力があると信じられていた。イエスは十字架で死して三日目に復活している。キリスト教の神は「三位一体」として、三数性に支配されていることを示している。
 その「三」によって構成されているユリは、当然、聖なる花と見られることになる。
 ユリの英語名は“lily”だが、そのもとになったラテン語名“lilium(リリウム)”は、さらにケルト語にまでさかのぼることができるという。そのケルト語の意味は、「白い花」だという。
つまり、ヨーロッパ南部などの地中海沿岸地方を中心に、「白い花」を代表する花と言えば「リリー(lily)」だったのである。 それが、先にも述べたように、今は「マドンナリリー」と呼ばれるようになったのは、もっと素敵な白いユリ、日本のテッポウユリが、ヨーロッパ中に広まったためだった。

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ユリ科の花:ショウジョウバカマもユリ科。花被片は6枚。おしべも6本。/撮影=水尾 一郎
●「ムシカリ」と装飾花●

 「ムシカリ」という名の木があります。六月から七月にかけて、少し高い山々に白い花を咲かせます。スイカズラ科ガマズミ属の野生の木ですが、その変わった和名の由来はあまりよくわかっていません。江戸時代の『本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう)』(小野蘭山著)には、同じスイカズラ科ガマズミ属の「ガマズミ」の地方名に「ムシカリ」と言うのが記載されています。その地方名は「虫で枯れる」の意味の言葉がなまったものだと言われていますが、それもあまり定かではありませんし、その木の花の特徴から、ここに掲げた「ムシカリ」とはまるで別物であることがはっきりしています。

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ムシカリ:上高地/撮影=水尾 一郎
大きく五弁に開いた白い花が「装飾花」。本当の花は、いくつもの「装飾花」に囲まれて咲いている小さな花々。別名「オオカメノキ」とも言い、スイカズラ科ガマズミ属の低木で、山の比較的深いところに生える。関東地方なら標高が1200m以上に生えるが、北へ行けばもっと低いところにもたくさん見られる。


 よく目立つ5枚の花びらを持つ外側のいくつもの花には、実はおしべもめしべもありません。この本来の花と異なるものは、「装飾花」と呼ばれ、昆虫を引き寄せる目印の役割をしていると考えられています。一見して5枚に見えますが、その根元ではひとつにくっついて合弁花になっています。このたくさんんの「装飾花」に囲まれて、その内側に小さな両性花を多数つけるのです。両性花もまた、5弁には見えますが、「装飾花」と同じく、花びらの根本のところでひとつにつながっているのがわかります。スイカズラ科の花はいずれも合弁花なのです。
 ラテン語学名は“Viburnum furcatum(ウィブルヌム フルカツム)”。“Viburnu”はガマズミ属、“furcatum”は「二つに分岐した」「二叉の」という意味で、若枝の伸び方に、一見してこのような特徴が見られることから名付けられたもののようです。

 関東山地の奥多摩に、三頭山という山があります。中腹に東京都の「都民の森」が広がる山ですが、その山頂直下にはこの植物の名を冠した峠があります。まさに「ムシカリ峠」と言い、なるほどたしかに、この周辺には「ムシカリ」が多数自生しています。また、その低木の下には、都下でも有数のレンゲショウマの群落があって、7月頃には、その薄紫の花をいくつも見せてくれます。この頃、レンゲショウマを見るために、多数のハイカーが訪れます。(奥多摩でレンゲショウマの群落が名高いのは御岳山ですが、こちらは七月の下旬頃にレンゲショウマ祭りが開催されます)。


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レンゲショウマ:三頭山ムシカリ峠/撮影=水尾 一郎
学名:Anemonepsis macrophylla(アネモメプシス マクロフルラ)。キンポウゲ科レンゲショウマ属の日本特産の花。大きく開いている花びら状のものは萼片。真ん中で下向きに壁のように突っ立っているのが花弁。この花弁に囲まれておしべが多数林立し、そのさらに中央にめしべがある。


 別名の「オオカメノキ」は、その葉が亀の姿に似ているからだと言われていますが、こちらのほうも、本当のところはよく分かっていません。

●「装飾花」の持つ意味と進化●

 この花は、受粉ためのポリネーター(送粉者)を呼び寄せるために、「装飾花」を真の花の周囲にいくつもつけて、ちょっと目には、いかにも無駄なコストを割いているように見えます。同じ合弁花でも、ツツジの仲間などは、よく目立つ大きめの花に、甘い蜜までつけてやって、送粉者を招きます。受粉を助けてくれるお礼に、蜜をあげようというのです。けれども、「装飾花」のある花では、中心部にある真の花は蜜を出しません。
 これは、「ムシカリ」が、他の顕花植物の進化とはほんの少しだけ違った進化の道筋をたどったことを表していますが、その最大の要因を、エネルギーコストの問題として考えることができます。


 植物が花を咲かせることは、植物にとって多大なエネルギーの消費をもたらします。植物にはもうひとつ、植物体そのものを強化し、大きくして、自然の変化に耐えられる体にするために使うエネルギー消費があります。
 けれども、なんと言っても植物の最大のエネルギーコストは繁殖のために用いられるものです。本来は、どの植物も、自分の子孫である種子の産生ということに、全エネルギーを集中したいのです。
 そこで、植物はつねに自己の植物体の強化と維持、保全のために、自ら光によって生産するエネルギーの一部を少しずつ割きながら、そのエネルギー消費とうまくコストバランスできるようにして、種の繁栄に全力を注ごうととするのです。


 虫媒花では、花粉の運び手を呼び寄せることが、重要な子孫形成と繁殖のための戦略のひとつとなっていますが、そのためによく目立つ大きな花やおいしい蜜を提供するというのが、一般的なこれらの顕花植物≒虫媒花の進化の方向でした。けれどもそのエネルギー消費はかなりの高負担となります。中でも特に高カロリーな蜜を産生することには、非常なコスト負担を強いられるのです。
 「ムシカリ」などの「装飾花」の戦略は、一見無駄なように見えても、高エネルギーを必要とする蜜を産生するコストに比べたら、こちらの方が安上がり、ということなのだと考えられるのです。「ムシカリ」など、比較的冷涼な気候のところに進出した植物の場合、低木であるが故に潤沢な日光に恵まれないという条件の中で一定の繁栄を得るためには、こうした繁殖のためのエネルギーの節約も重要なアドバンテージを与えてくれたのでしょう。
 この「装飾花」戦略は、「ムシカリ峠」という名がつけられるほどの繁栄をもたらし、大きな成功を収めました。三頭山や「都民の森」にいらっしゃる節は、どうぞ、そんな「ムシカリ」のことも思い出してやってください。


●装飾花をつける花:アジサイとその仲間●

 さて、「装飾花」をつける植物のことをもう一つ。「装飾花」をつける植物は、日本では、あじさいの仲間(ユキノシタ科アジサイ属)に多く、園芸品種のあじさいのもとになった野生の「ガクアジサイ」はもちろんんこと、これによく似た「ヤマアジサイ」、あるいはまた「「タマアジサイ」、「ガクウツギ」、「ノリウツギ」などにも特徴的に見られます。梅雨空の庭先で、花びらの色を微妙に変える園芸品種のあじさいに、人はその装飾花を楽しみ、愛でているのです。
 なお、「ハイドランジア」と呼ばれる「西洋あじさい」は、日本の園芸品種がもとになって品種改良されたものが再輸入されたものです。日本でも江戸時代にはすでに、園芸品種としての改良が行われていたのですが、その日本のあじさいを持ち帰ったイギリスのキュー植物園など、ヨーロッパ各地の植物園で、多くの品種改良が加えられました。ヨーロッパ人は派手で豪華な花を好むため、「ハイドランジア」は、そのような方向に改良されました。再輸入された「ハイドランジア」=「西洋アジサイ」の花が総体的に大きく、豪華に見えるのはそのためです。


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ツルアジサイ:ユキノシタ科アジサイ属=撮影:水尾 一郎
Hydrangea involucrata


●春の花、日本のスミレたち●

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オオバキスミレ=上高地にて。

 ◆俳句や和歌の上のスミレ=すみれ(菫)◆

 日本の春には、スミレがよく似合う。
 芭蕉の俳句にもある。


 山路来て なにやらゆかし すみれ草

 この「すみれ」は何であろうか?
 マンジュリカであろうか、ノジスミレかオカスミレか?
 当時、「すみれ」といえば「すみれ色」の花を指していたようだから、白や黄色の「すみれ」ではあるまい。すみれには、白い種類も少なくないのである。
 復本一郎氏の『芭蕉歳時記』(講談社選書メチエ)によれば、この「すみれ」は「摘むすみれ」という、それまでの伝統に一石を投じたものだという。歌の伝統では、「すみれ」はただ野辺に観賞するものではなく、実際に「若菜摘み」のように「摘むための花」であったという。その例として次の歌も上げられている。(P59~P62)


 たしかに、たとえば『新古今集』には能因法師の次の歌がある。

 いそのかみ ふりにし人を 尋ぬれば 荒れたる宿に すみれ摘みけり(1684)

 ここでは、「すみれ」は「住む」と掛詞になっているのだが、それはさておき、「すみれ」は摘んでどうしたのだろうか? 食べることはないだろうから、もちろん飾ったのであろうが、どのようにして、どこに飾ったのだろう? 浅学にして不明である。
 『千載集』には源顕国の次の歌もある。ここに「つぼすみれ」とはあるが、これは現在の真っ白に赤紫の模様のある「ツボスミレ」とは異なるのであろう。この歌の「つぼすみれ」は、
「すみれ」の名が「壺状の墨入れ」=「菫壺」からの由来であることを匂わせるものであって、やはりこれは「すみれ色」でなくてはなるまい。やはり、マンジュリカかノジスミレ、あるいはオカスミレのたぐいであろう。

 道とをみ 入野の原の つぼすみれ 春のかたみに 摘みて帰らむ

 さて、文学乗りはこの辺でよして、植物としての「すみれ」に入ろう。植物学的に語るときには、これまでの「すみれ(菫)」は「スミレ」となるのである。


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スミレサイシン=上高地にて


 ◆日本のスミレは、スミレ科スミレ属の一属のみ◆

 スミレはスミレ科Violaceae(ウィオラケアエ)というファミリー(=科)に属する花の総称である。世界的には、温帯から熱帯にかけておよそ16属850種ほどが知られている。日本には、しかしながら、このスミレ属(viola=ウィオーラ)のみが自生する。しかも、ヨーロッパにあるような「三色スミレ」タイプはなく、日本産のもので園芸種に取り入れられているスミレはひとつもないようである。
 スミレ属1属とは言っても、日本にはおよそ50種があるとされる(平凡社『日本の野生植物』)。いがりまさし氏の『日本のスミレ』(山渓ハンディ図鑑6)には、変種レベルまで含めて93種が収録されており、変種や亜種の数がかなり多いこともこのスミレ属の特色である。また、他の種どうしかけあわさった雑種(交雑種)も多様である。雑種は子孫をつくらないが、このような頻繁な交雑種の出現は、スミレ属の種の多様性をつくり出す一因となっていると見なすこともできる。

 世界的に見ても、このスミレ属(ウィオーラ)だけで400種を数えており、進化の上では、スミレファミリー全体の成功と言うより、もっぱらこのスミレ属1属の成功と言ったほうがいいのだろう。
 たとえば、東北地方の水田のあぜに群れ咲くツボスミレ(ニョイスミレ)を見ると、その理由がよくわかる。ツボスミレは人間の水田耕作に随伴するようにその生息範囲を広げてきたのである。ツボスミレは白い花弁の一つ(唇弁)に、赤紫色の文状の筋が入っている。小さい花だが、かがみ込んでのぞき込むとなかなかの色白美人である。いかにも東北の水田に似つかわしい。とは言え、その群生はなかなかのもの。色白美人の大パレードなのである。
 フモトスミレは、おもしろいことに、人の歩く道をその生息地としている。奥多摩の大岳山などには、春たけなわの頃、登山者のためにつくられている木の階段の陰に、上手に人に踏まれないようにしながら、点々と花を咲かせるのである。フモトスミレは、人のあまり入らない荒れ地や樹林には、まったく姿を見せない。人が開いた道際に咲くのである。


2_2 エイザンスミレ=奥多摩・御前山 

 ◆スミレの進化。繁殖戦略の成功◆

 スミレの進化的な成功には、スミレの受粉の方式が非常に柔軟であることが寄与したと考えられている。
 実は、スミレ1属には、春先から初夏にかけて花を開くあのスミレの花のほかに、この花が終わってしばらくしてから、夏の頃にひっそりとつける花がある。花は花なのであるが、咲かない花である。これを「閉鎖花」と呼ぶ、花を開かないまま、花粉をつくり、自分の花粉を自分の雌しべの柱頭につけてしまう。つまり「自家受粉」。
 もちろん、花をちゃんと開くほうの花(「開放花」と言う)でも受粉はする。けれど、こちらはもっぱら「他家受粉」用の花。「他家受粉」とは、自分の花粉では受精しないで、他の花の花粉で受精すること。「他家受粉」では、異なる遺伝子をもつ花どうしがかけあわさることになるわけだから、それによってつくられる種子は、遺伝的多様性を獲得する。
 一方の、「自家受粉」では、遺伝子は自分のものだけ。つまり、こちらはいわば自分の「クローン」をつくるようなものである。

 これはどういう意味があるか。
 天候が順調で、春先もちゃんと日が照り、雨もほどほどであるような年には、スミレは、たくさんのエネルギーを手に入れられるので、ふんだんに、いわば贅沢にエネルギーを使って花を咲かせ、花粉を運んでくれる虫たちを誘うための甘い蜜をたくさんつくって、花の奥の方に蓄える。
 こうして、送粉者たちが媒介したことによってつくられる遺伝的多様性の豊かな次代の種子を準備することができる。
 けれども天候が不順だったり、異常気象に見舞われて、充分な日照を手に入れられないときはどうするか?
 エネルギーを徹底的に節約するのである。
 遺伝的多様性の維持、獲得は一応置いておいて、子孫をつくることだけに専心する。贅沢なことは言っていられないから、とにかく最小限のコストで花を付け、最小限のコストで種子をつくる。それが「閉鎖花」である。
 せっかく「開放花」を開いて昆虫を待っても、あるいはその昆虫たちに異常事態が発生していて、「他家受粉」がうまくいかないこともあるだろう。長い、長いスミレファミリーの歴史には、そのようなことは何度もあったろう。
 そのときのための「閉鎖花」である。
 スミレ科の植物の最古の現存する化石は、今からおよそ3千万年以上前までさかのぼれるそうである。その3千万年を超える進化の歴史が開発した繁栄の戦略がこれ。この二段構えの受粉作戦こそ、スミレ1属の成功の秘訣であった。


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ナガバノスミレサイシン=奥多摩・御前山


 ◆スミレは随伴植物として成功した◆
 
 さらにもう一つ、彼らには特徴的な繁栄戦略があった。
 彼らはできうる限り人間の生活圏にぴったりくっついて、自らの生息域を拡大しようとしてきたのである。それによっていっそうの種の繁栄を追求する、というしぶとい戦略である。開放花と閉鎖花という二段構えの受粉戦略と、人間の活動域に積極的に随伴するという戦略の二つは、彼らの繁栄にとっては、両輪の車であった。鬼に金棒だったのである。
 それが先に書いた田のあぜのツボスミレたちの成功、というわけである。
 けれども、人間世界への随伴戦略ゆえに、種の存亡の危機に瀕しているスミレもある。たとえばスミレ愛好家には「マンジュリカ」と呼ばれて好まれるすっぴんの「スミレ」である。この種は、都市圏では最近あまり見られなくなった。特に大都市近郊では、この「スミレ」の自生種をまったく見かけることがない。あんまりにも人間の活動圏に間近に随伴しすぎて、かえって種の維持を危うくしてしまったように思われるのである。とすれば、人間の生活域があまりにも人工化されてしまったことが災いしているのであろう。
 今、住宅のコンクリートが打たれたところと道路との間の細い隙間など、人間の生活域の悪条件下で顔を出すスミレは、「ノジスミレ」という種がほとんどである。これは、色といい、形といい、「スミレ」によく似ているので間違えることも多いが、よくのぞき込むと、その花影には「スミレ」のようなりんとした風格が足りない。こちらのほうが「スミレ」より匂いが強いと言われているが、匂いのほとんどないものもあるので、違いを見分けて同定することはかなり難しい。
 とは言え、「ノジスミレ」が街中でよく見られるのは、こちらのほうが「スミレ」よりも、人工的環境にわりあい強いからであろう。「スミレ」はもう少し野生的な環境が好みのようである。
 スミレ=viola mandshurica(ウィオーラ・マンジュリカ)は、「満州の」という意味の形容詞が種小名の植物。今では死後となった植民地名の「満州」であるが、実はこんなところに残っていた。学名はいったん決めると、変えることができないのがきまりであるので、この名は将来も残る。
 ノジスミレ=viola yedoensis(ウィオーラ・エドエンシス)は、「江戸産の」という意味の形容詞を種小名にもつ。それだけ市街地に適応できる種であるということであろうか。


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ニョイスミレ(ツボスミレとも)=丹沢三ノ塔尾根にて。


 ◆スミレには大きく分けて二つのタイプがある◆

 スミレには、地上茎のあるタイプと地上茎のないタイプとがある。
 地上茎のあるタイプとは、根から茎が出ていて、その茎から葉や花が出ているものである。普通に見られる植物のタイプと言ってもいい。一方の地上茎がないタイプはつまり、その茎がなく、葉や花の茎が直接根から伸びているものをいう。
 
 地上茎あるタイプの代表が、タチツボスミレ。学名はviola grypoceras(ウィオーラ・グルポケラス)。grypocerasはギリシア語起源の言葉を二つ組み合わせたもので、「鍵のある角の」という意味を持つ種小名である。花の後ろに伸びる距の形から命名されたようである。
 タチツボスミレには変種や品種が多い。牧野富太郎が、箱根の乙女峠で発見してオトメスミレと名づけた白い花を咲かせるものもあり、各地でそれぞれの土地に適合した多様な姿を見せる点でも、おもしろい種である。さらに、交雑種を作ることが多いことからも、日本のスミレ属の進化の中心的な役割を担っていると考えられる。


02_4 タチツボスミレ=丹沢山地にて。地上茎のあるタイプである。

 スミレサイシンとフモトスミレは地上に茎がなく、直接根から葉や花が出るタイプである。
 ここに掲げたスミレサイシンは、主に北陸、東北の日本海側の雪の多い地方に分布するもので、上高地で撮ったもの。関東地方から九州にかけての太平洋側に分布するのは、葉が長いタイプの、ナガバノスミレサイシンである。スミレサイシンの「サイシン」は「細辛」で、漢方薬の「細辛」に葉形が似ていることから名づけられたもの。
 学名は、viola vaginata(ウィオーラ・ワギナータ)で、種小名は「さや状の」という意味の形容詞。托葉がさや状になっていることから名づけられた。


04 フモトスミレ=御前山にて。登山道に沿って咲くことが多い。

 フモトスミレは先に説明したもの。
 和名に「麓」がどうしてついたのかはわからない。小型ながら気品があって愛らしく、ぼくの二番目に好きなスミレである。学名はviola siebodi(ウィオーラ・シエボルディ)で、何とあのシーボルトの名が冠せられている。シーボルトが標本としてライデン大学に持ち帰ったものの一つなのであろう。
 これが二番目であるから、一番好きなスミレのことを書かねばなるまい。それはアケボノスミレという種である。写真は、フォト欄に掲載しておくことにした。このアケボノスミレはスミレサイシンの仲間で、ほのぼのとしたピンク色が、ぼくにはほのかに恥じらう乙女に見えるのである。葉が開くか開かないかで、もう花を咲かせるのもこのスミレの特徴で、その人気は高いようである。早春のスミレの代表であろう。


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アケボノスミレ=最も美しいスミレの一つ。奥多摩に多い。
 
         生藤山にて。
 ヘンデルの作曲した“Ombra Mai Fu(オンブラマイフ)”。は、紀元前のペルシア王、クセルクセス1世をテーマとしたヘンデル作曲の“Serse”の冒頭の曲です。現在は男性のカウンターテナーか、女性のメゾソプラノまたはソプラノで歌われます。

 どうしてここにHandelの作曲した歌が現れるかって?
 それはこれが「木陰」を歌った歌だからです。
 題名の“Ombra mai fu”をそのまま訳すと、「どこにも蔭はない」となります。その「蔭」というのが、クセルクセス1世が愛した木の蔭、というのです。

 まぁ、ちょっと息を抜いて、彼女の歌を聴きながら、ペルシアの暑い気候の中で、やさしい木陰を与えてくれた木が何であったか、ちょっとご覧くださいませ。

 歌詞は、次の短いフレーズが数回繰り返されるものです。


 Ombra mai fu,       蔭は決して存在しない
 Di vegetabile,       その木(植物)の
 Cara ed amabile,     親しみ深く かつ やさしい
 Soave piu?         これ以上に心地のよいのは?


 右に直訳的に訳語を書いてみました。
 クセルクセスが、一本の木を見上げながら、あるいはその木肌をさすりながら、その木が与える木陰を賞でて歌うのです。


 この木が投げかける蔭のように
 親しみ深く、愛しい蔭は、
 決してひとつもないのだ。
 これ以上に心地よい蔭は。


 クセルクセス1世がそうやって歌いかけた木は、Platanus orientalis(プラターヌス オリエンターリス)であるとされています。まさにバルカン半島やアケメネス朝ペルシアの国域が原産地とされている木、スズカケノキ(鈴掛の木)です。日本ではプラタナスとも言われますが、日本で一般にプラタナスと呼ばれているのは、北米大陸が原産のPlatanus occidentalis(プラターヌス オクシデンターリス)、アメリカスズカケノキ(アメリカ鈴掛の木)です。とはいえ、その樹形や葉の形がよく似ているので、ふつうにはあまり区別されていないようです。
東京の新宿御苑のフランス庭園やイギリス庭園には、P. orientalis と北米のP. occidentalisとが並木のようにして植えられていますから、葉っぱなどを見比べることができます。

 日本の街路樹には、この2種類のプラタナスのほかに、もう一種、モミジバスズカケノキが植えられています。モミジバスズカケノキは「モミジバ(もみじ葉)」というだけあって、もみじの葉によく似ています。イタヤカエデの葉の縁にぎざぎざ(「鋸歯」と言います)をつけたような形をしています。
 プラタナス並木を見かけたら、落ち葉を拾ってあちこちのものを比べてみると、違いがわかってくるかもしれません。ペルシアなどが原産の P. orientalisの葉の切れ込みが一番深いのですが、やっぱり、お近くの植物園や樹種名の札のかかっている公園で比べてみるのがいちばんです。

 これからプラタナスの落ち葉のシーズンですから、拾い集めてみるとおもしろいですね。
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 何の花に見えますか?
 白い花びらの中心部が暗赤色。おしべが花柱のまわりに張り付いているようです。花柱の頭部が五裂してます。
 どこからどう見ても、アオイ科の花、それもフヨウ属の花によく似ています。

 フヨウ属と言えば、属名にもなっているフヨウ(芙蓉)や、ムクゲ(木槿)、あるいはタチアオイ(立葵)といったところが思い浮かびますが、それらの花に本当によく似ています。

 この花こそ、タイトルにもある通り、オクラの花なのです。

 オクラが野菜として日本に入ってきたのは明治のかなり早いうちだったようです。『西洋蔬菜栽培法』(1873年刊)にはすでに記載があり、そこでは、アメリカから導入された野菜として紹介されているそうです。  
 
 このオクラ、同じアオイ科フヨウ属ですから、園花が似ていて当たり前ということなのでしょう。さて、そのフヨウ属のラテン語属名は Hibiscus。
 ラテン語では「ヒビスクス」と読むほかありませんが、英語風に読むと「ハイビスカス」。つまり熱帯の花として有名なハイビスカスが、この一属の代表選手というわけです。
 マレーシアでは国花とされ、ハワイ州では州花、沖縄市では市の花として定められているのですが、いずれも野生のものの交雑によってつくられた園芸品種をそのように定めているということのようです。

 先に野菜としてのオクラは明治の初めにアメリカから入ったという記録があると書きましたが、元々の原産地はアフリカのようです。

 ですから、オクラについては、アフリカのオクラのことを見なければいけません。
 けれども、ぼくはアフリカには行ったことがありませんから、文献を見てみるほかありません。といっても「文献」などという大それたものでなくても、わりあい身近なところにオクラについて紹介した文章がありました。

 それが『サバンナの博物誌』という小さな本です。川田順造という民族学者・文化人類学者が書き記したアフリカ見聞録ですが、これがちくま文庫(1991年)におさめられています(もともとは単行本。1979年刊)。


 この本の一番最初が「バオバブ」。つまり、アフリカで名高い、というより、『星の王子さま』で有名になったというほうが正しいのでしょうけれど、そのバオバブの木について書かれています。
 その次が「オクラ」にあてられているのです。ちなみにこのあとには「ホロホロチョウ」、「サガボ」、「スンバラ味噌」、「バターの木」、ササゲと、まぁ、食べ物の話が続きます。もちろん、著者自身が現地の人といっしょに普段食したものばかりです。
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 単行本はだれかに借りて読み、その後も感銘深く長く心にとどまっていました。それから10年ほどしたころでしょうか、偶然文庫になっているのを書店で発見して、ためらうことなく買ったというのが、写真の文庫本です。
 今はわが家の積ん読ですが、思い出深い、大切な積ん読です。
 ですから、この本はぼくの「宝物」のようなものです。


 著者が数年を過ごしたアフリカ、ガーナ北部のモシ族の集落には、三種類のオクラがあることが分かるといいます。そのひとつが日本人も食べる野菜のオクラというわけです。少し引用してみましょう。

 一つは、日本でオクラとかガンボとか、アメリカネリとも呼ばれている実をならせる植物 Hibiscus esculentus で、モシ族のことばでマーナという。実を、主食のサガボにつけるおつゆ、ゼードに入れる。アフリカでは、たいそう古くから作られていたらしく、エジプトで紀元前二千年紀にすでに栽培されていたらしい。(P20L2~L5)

 紀元前二千年から栽培されていたというオクラです。
 原産地がアフリカでなくてどこだと言えましょうか。

 モシ族は、三種類在るオクラの仲間のいずれも、生活に欠かせないものとして利用していると、著者は書いています。オクラはもっぱら食用ですが、他の二種類のうちの一つは茎の皮から繊維をとって綱を作りと言います。その茎の繊維を使う種類であっても、若葉は食用にされるそうです。もう一つは花の萼の部分を乾燥させて、主食にほのかな酸味を付ける香草として用いる、ということです。
 オクラ一族とのかかわりの深さが印象づけられる文章です。
 そのかかわりの深さゆえでしょうか、オクラについてはモシ族に伝説があるそうです。その伝説とは、モシ王朝の始祖となる王女の話です。
 王様がその娘の王女をなかなか結婚させないので、庭にオクラを植えて、その身を採集しないまま放置しおきます。王が娘にたずねると、今のわたしはこのオクラの実と同じです、と言ってさめざめ泣いたのだそうです。それでも結婚を許さない王に愛想を尽かして、ついに王のもとを離れてサバンナの原野の中で勇壮な狩人の男と結ばれ、その二人のあいだにできた子どもが、モシ族の始祖になった、というのです。

 なぜ、娘の王女は庭にオクラをつくったか?
 それを知るために、もう1個所著者の文章から引用しておきましょう。


 サバンナで暮らすあいだ、私も庭にオクラを作ったことがあるが、摘んでも摘んでも、おもしろいようにあとからあとから実がふくらんでくる。(P23L4・L5)

 どんどん食べ頃になってしまういくつものオクラの実。
 それなのに、まるで摘まずにおいたらどうなるでしょう? 娘の王女はそのような暗示を父王に見せたのでした。
 またそれだから、モシ族のあいだでは、オクラは多産の象徴のように見られていると言います。そして、モシ族の新婚の花嫁へのはなむけの言葉には、「オクラみたいに子供をたくさん産むように」というのがあるんだそうです。


 属名の Hibiscus はローマ時代のこの属の花の花名です。種小名のほうの esculentus は「食用になる」、「食べられる」という意味の形容詞(男性形単数)。
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 オクラの花の近くで咲いていたニラの花もついでに上げておきましょう。
 こちらはユリ科ネギ属。学名は、Allium tuberosum。
 種小名の tuberosum (ツーベロースム)は「でこぼこした、こぶの多い」という意味の形容詞(中性形単数)。根茎が塊茎状となっていることから。
 一方、属名の Allium(アルリウム)は、ニンニクのローマ時代の古名 Alium(アーリウム、Allium とも綴った)からとられたものです。

 花にとまっている吸蜜中の蝶は、ベニシジミです。日本の平地ではどこにでも見られるシジミチョウの仲間です。
●渡良瀬遊水地のこと●
 ☆渡良瀬遊水地の花の話をする前に、この遊水地の歴史について語っておかなければなりません。お花の話はずっとずっと下の方に書かれています☆

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ヨシ原の広がる渡良瀬遊水地。

 ◆渡良瀬遊水地と谷中湖◆

 渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)。
 遊水池でなく、「遊水地」であるところがみそ。
 栃木県・埼玉県・茨城県・群馬県の4つの県にまたがる広大な洪水調整用の土地です。面積は東京ドームの700倍、約33k㎡もあります。遊水地を流れる川は三本。渡良瀬川・巴波川(うずまがわ)・思川(おもいがわ)の三つで、巴波川と思川が遊水地内で渡良瀬川に合流して一本となり、利根川に注いでいます。


 かつては、純粋な洪水調整地でありましたが、近年渇水対策用にと、谷中湖(やなかこ)というため池(貯水池)がつくられました。この池の造成では、貴重な湿地の植物をだめにする、ということで、植物や鳥の保護を願う人たちとすったもんだしました。日本の水田地帯で普通に見られた植物が絶滅の危機にあった中、渡良瀬遊水地は、それらの植物の貴重な保存場所になっていたのです。絶滅危惧種を滅ぼしてまで、必要なため池であったのかどうか?

 それは第二谷中湖の建設が取りやめになったことで、一つの回答が出ていると考えていいのかも知れません

 実態はというと、水の需要が最も高い夏に、この谷中湖で大量のアオコが発生するため、そのままでは生臭くて飲用には適さないのです。ひと頃は夏が来るたびに、利根川下流で取水する東京都の水道が青臭くて飲用に堪えないという問題が発生し、利根川の水が飲料水として供給されている一帯では人々からの苦情が殺到しました。青臭い水は沸かしても青臭さが取れません。当時の建設省はその原因がこの谷中湖にあることをひた隠しにしていましたが、ずっと隠し通せるものではありません。

 そのような心配を訴えてきた人々の声を無視して、国土交通省(当時は建設相)関東建設局は、すべての反対を押し切ってこの池の造成を強行してしまったのです。
 例年のようにアオコが大量発生して、この水がまったく飲料水に適さないということが明るみに出てからは、アオコが出ないようにと、しょっちゅう池を撹拌して酸素を供給し、泥を浚渫しています。風力エネルギーを部分的に用いているにせよ、そのために膨大なエネルギーコストがかかっています。東京都のために、高いコストの飲用水を供給している、というわけです。
 当時の建設省は「第二谷中湖」の造成を計画していましたが、それはさすがに取りやめになりました。「第二谷中湖」がつくられていたら、この貴重な湿原の植物はどうなっていたでしょうね。

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渡良瀬遊水地のタチスミレ(Viola raddeana)。ヨシ原のなかで光を求めて立ち上がったためでしょうか? 背高のっぽのスミレですが、花の形はツボスミレ(ニョイスミレ)のタイプです。


 ◆植物のシード・バンク◆

 渡良瀬遊水地は洪水時の湛水効率を高めるために、第一調整池から第三調整池まで三つの区画に分けてあります。谷中湖があるのは第一調整池で、国土交通省は第二調整池にも人造湖をつくろうとしたのです。今は人造湖をつくるとは言わなくなりました。現在は、第二調整池全体にわたって50センチほど掘り下げる、ことを計画しているようです。現在の表土を掘り返すことで、現在地中に眠っている植物の種子がどのような目覚め方をするか、つまり、果たしてうまく芽を出して育ってくれるか、種子を付けてくれるかなどということを、少しずつ試行しながら、渡良瀬遊水地の植生をいっそう価値あるものにしたいということが目的であると言います。それはたしかに大義名分としてなかなか説得力のある主張ではありますけれども、それが最終的に現在の表土のすべてをはがすことになるのですから、よほどの慎重さが要求されるでしょう。現在の表土をすべてはがしてしまえば、その表土の植生に依存している昆虫や鳥たちが、大きなダメージを受ける心配があるからです。表土をはがしたあとに、思惑どおりに新たに植生が再生するとしても、植物相が現在とまったく変わってしまう可能性も棄てきれません。

 また、うまく元のように植物相は復元できたとしても、あるいはいっそう豊かになったとしても、以前そこに生息していた昆虫や鳥たちが戻ってくるという保証はありません。行政は植物が復元すると、「復元成功」とはやし立て、自画自賛しますが、よく観察していると、以前はそこにあふれていたチョウやトンボがまったく姿を見せないことに気づきます。多くの昆虫たちがそこで滅んだのです。そこに巣を営んでいた鳥たちもまた多くは戻ってきません。いったん消滅してしまった以前の植生に依存していた鳥や昆虫たちは、一時的にせよ行き場を失ってしまいますから、ほとんどがだめになってしまうのです。行動半径の小さいものほどダメージは大きいのです。
 この一帯は水面下に沈むことがたびたびあるため、ウサギやネズミなどの小動物はもともと生息していないらしいのですが、鳥類や昆虫類には大きな損害が出てしまう心配があります。特に昆虫類については、日光や丹沢などですでに実証されているように、たとえ植物相が昔のように復元できたとしても、もともと生息していた昆虫が姿を見せなくなることは明らかなのです。
 その一例をあげておきましょう。日光でも丹沢でも、鹿の食害によってクガイソウが一時は完全に絶滅したと思われていましたが、ここにもシード・バンク(少しあとで説明します)は有効に機能して、鹿の食害を減ずることに成功してほどなく、次々にクガイソウが復活し、小さな群落をつくるまでになりました。けれども、このクガイソウを食草としているコヒョウモンモドキというチョウの一種は、この二つの地域ではまったく見られなくなり、現在ではこの両地域のコヒョウモンモドキは、クガイソウが一時的に姿を消したとき、食草の途絶によって絶滅したと信じられています。 チョウは特に、その幼虫時の食草が限定されていますので、被害をこうむることが多いのです。


 一方植物というのは、人間が考える以上に融通無碍なところがあって、かなりの環境変化にたえうる場合があります。しょっちゅう人間が掘り返している場所のほうが、かえって繁栄する植物も少なくありません。田んぼの畦などに生える、いわゆる田んぼの雑草にはその傾向があります。田んぼの植物はですから、長く人間の耕作に寄り添って生きてきたのですが、近代、特に戦後になって田んぼにたくさんの除草剤が撒かれることによって、今では各地で絶滅してしまったり、その危機に瀕していたりしています。

 ところがその田んぼの雑草たちの種子が旧谷中村一帯の地中に眠っているらしいのです。少し後で書きますが、この渡良瀬遊水地は、その昔、と言っても明治のはじめの頃までのことですが、豊かで穏やかな農村生活が営まれていました。そのような農村の自然が失われたのは明治時代半ばを過ぎたころのことです。それは、まだ除草剤などが使われていない時代の、農民には草取りの大変な時代でありました。それだけに、渡良瀬川が涵養する有数の穀倉地だった谷中村の地中には、水田耕作時代に人間に寄り添って生きていた多様な雑草たちの種子が驚くほどたっぷりと残っていると考えてよいのです。
 このように、地中にさまざまな種子がたくさん眠っている状態を「シード・バンク」と呼びます。seed bankです。直訳すれば「種子銀行」。このなかにはきっと、今、農薬によって絶滅の危機にある植物の種子もたくさんあることでしょう。それらの植物の種子たちは、地中深くに日も当たらず空気も得られないまま、真っ暗な中でじっと静かに眠っているのです。再び日の光や空気に触れることができる日まで、本当に、本当に文字通り眠っているのです。
 おかげで、渡良瀬遊水地では、旧建設省以来の掘り返し好きの官庁の存在が、そのように旧谷中村時代からじっと地中に眠っていた植物をよみがえらせてきました。谷中湖の造成中には、掘り返された場所に一時的にミズアオイの大群生が見られたといいます。けれども、それらは湖が造られてしまったために、今ではすっかり姿を消してしまいました。あるいはまた、掘り返し好きたちが、人々の心配をよそに工事をする土壌から、美しい花々が目を覚ますかも知れません。なんとも困った話です。よみがえらせてくれたら、そのまま保存・維持できるようにしてくれればいいのに、そこまでは考えてくれません。谷中湖のように湖岸から何からコンクリートで覆ってしまっては、植物にとっては本当に「困苦履ィ塗」。種子を地中に残すことすらできません。人々がむやみな土木工事に反対するのは、それが結果として、豊かなシード・バンクの一方的な消耗になってしまわないかと恐れるからでもあるのです。ほんの一時のむなしい復活でしかないのなら、旧谷中村時代の水ぬるむ穏やかな稲田の夢をむさぼっている種子たちを、ずっと地中に眠らせてやっているほうがよほどいいのかも知れません。

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コバノカモメヅル(ガガイモ科)。これも渡良瀬遊水地に見られる。


 ◆官民のサイトなど◆

 渡良瀬遊水地の情報と言うことで、官民共栄のサイトと官のサイトとを紹介しておきましょう。残念ながら、客観的なあるいは科学的な根拠に基づいて行動し、主張するというような、われわれの信頼に足る「民」のサイトはないようです。
(「渡良瀬遊水地を守る」と標榜している団体はあるにはあるのですが、その行動や主張は、保全生態学や環境保護の立場からは、かなり批判を受けていると言うことです。渡良瀬遊水地は、人間がつくりあげた湿地帯ですので、人間とのかかわりがなければ維持できません。毎年ヨシ焼きをするのもこの一帯の植生保護のためですし、一定のシステムでときどき掘り返してやることも重要なことのようです。)


 まず「官民共栄」のサイトです。
 そのタイトルもそのものずばりの「渡良瀬遊水地」。


  http://www1.odn.ne.jp/~aan53170/wtrs/

 このサイトの運営者は「渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団」というもので、「アクリメーション」とは水に親しむリクリエーションとでもいう意味の官による造語です。官民共同の、つまり第三セクターの観光振興財団ということになるでしょうか。官が造った谷中湖の運営・管理が最大の、あるいは唯一の業務です。

 もう一つは官が開設しているサイトです。こちらのサイトの運営者は、国土交通省関東建設局利根川上流河川事務所です。
 サイトのタイトルもやはり、同じように「渡良瀬遊水池」。

 けれどもちょっと違うのは、「遊水池」の「池」の字。
 「地」でないところがみそです。きっと官民のほうのサイト名、「渡良瀬遊水地」をちょっとだけ意識しているのでしょうね。そうそう、ちなみに先の「渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団」が運営する「遊水池会館」は、これも「地」ではなく、「池」の字を使っています。まぁ、こんなことはどうでもいいですね。
 国土交通省出先機関のURLは次のとおりです。


 http://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/watarase/

 ◆足尾鉱毒問題と利根川改修◆

 「谷中湖」という名前から「谷中村事件」を連想できた人はあまりいないでしょう。あの田中正造氏が命がけで守ろうとしたあの谷中村にちなんでつけられた名前なのです。


 足尾銅山の鉱毒問題を解決しようと、当時の日本政府は、この旧谷中村を中心とする一帯に、鉱毒物質の沈殿用の土地を造成することにしたのです。鉱毒対策用に渡良瀬川の水を一時的に遊ばせる土地、という意味で「遊水地」とされたのです。旧谷中村住民全員が、当時の土地収用法に基づいて強制退去させられたのは、1907年(明治40年)6月のことでした。翌明治41年には、谷中村村域全体が河川地域に繰り入れられ、地図上からも谷中という名さえ消え去りました。 

 明治に入って、政府から足尾銅山の権益のすべてを譲渡された古河市兵衛(ふるかわいちべえ)は、巨大な投資を行って銅鉱山の近代化を行い、さらにまた近代的精錬所を同地に建設したのです。これが足尾鉱毒問題を大きな悲劇にまで拡大・深刻化して、旧谷中村住民を追い詰めた最大の原因です。
 足尾銅山は江戸時代よりこの方、手作業で採掘されてきましたが、元禄年間をピークにして、その量は減少の一途をたどっていました。その間、鉱毒が流域全体に及ぶような大きな問題は出ませんでした。渡良瀬川中流域には沼沢も多く、それらの湿地が洪水時には自然遊水池(氾濫原)となって、もし鉱毒が流れ出ていたとしても、これらの沼沢地に滞留する間に沈殿していたと考えられます。さらに江戸時代末期には在来の鉱脈が掘り尽くされて、ほとんど休山状態となっていましたから、その点からも、大きな問題になることはなかったのです。


 その渡良瀬川の流路は、今のように利根川に流れ込むのではなく、かつては他の川を合わせながら江戸湾に流れ込んでいました。名称も太田川と言っていました。今の江戸川の流路がそれに当たります。江戸時代の1621年(元和7年)、徳川幕府はそれまで有数の暴れ川として流路の定まっていなかった利根川をこの渡良瀬川に合流させます。水田耕地を拡大するためとも、江戸への安全・確実な運送路を確保するため、とも言われていますが、そのはっきりした理由は解明されていません。なぜ、徳川幕府がこの工事を命じたのか、未だに謎の部分が多いというのです。
 というのも、この流路変更の後に、江戸幕府は、下流を流れていたまったく別の系統の流れ、常陸川(ひたちがわ)と呼ばれていた流路へと、利根川を導く大工事を続行しています。つまり、利根川は、ひとつは渡良瀬川に合流させて江戸湾に、もうひとつは常陸川に流れ込ませて、現在のように千葉県銚子市と茨城県神栖市との間で太平洋に注ぐようにしたのです。しかも江戸川を分けた後の利根川中流域には、鬼怒川や小貝川などの中小河川をいくつも流れ込ませて、流量を大幅に増やしています。これは利根川を水運に利用しようとしたからだと考えられます。たとえば、東北太平洋岸の港で舟に積み込んだ物資は、銚子で利根川に入り、さらに江戸川分流点から江戸川を経由すれば、舟だけで江戸に物資を運べます。
 その結果、舟を走らせる流量と川幅を持つ河川の出現は、同時に多くの沼沢地の干拓を進展させることにもなり、洪水湿地(氾濫原)を減少させることにもなりました。


 明治になると、この江戸川分流を残したことが、鉱毒沈殿のための沼沢地の減少とともに、政府の大きな懸念材料となります。渡良瀬川流域一帯で足尾鉱毒問題が明らかになってきたからです。
 足尾銅山から流出した鉱毒を含む水が、東京の市街地にまで流れ込むのです。その東京湾の河口付近の行徳には、重要な塩田地帯が広がっていました。まだ輸入岩塩から工業的に食塩を精製する時代ではありませんでしたから、塩田は貴重でした。その貴重な塩田までもが鉱毒汚染の危険にさらされることになったのです。さらには、東京湾の魚介類にも深刻な鉱毒被害が出ることも予測されました。
 おりしも日本は重工業化が国家的政策として推進されていました。日本史などで学ぶように、日本は当時、「第二次産業革命」と呼ばれている時代に入っていました。日清戦争の賠償金をもとに官営製鉄所が九州八幡に操業を開始したのは、1901年(明治34年)のことです。そのような日本の重工業化と軌を一にするように、足尾鉱毒問題が深刻化していくのです。銅は電線などの通電体として、電気産業全体に欠かせない金属でありましたから、いっそうの増産が要請されたのです。
 その一方で、東京を中心とした国内の鉄道網の整備が進み、川や運河に頼らない物資の迅速かつ大量の運搬が可能になってきてもいました。舟運のための江戸川分流の意味はほとんどなくなってきていたのです。


 ◆足尾銅山再開発と近代化成功の陰に◆

 先ほども書きましたが、足尾の銅山は元禄年間以降、産出量が徐々にダウンしていました。「足尾千軒」と言わるほどの繁栄は江戸時代初期の延宝年間のことでしたが、足尾が大いに栄えたのはほんの100年ほどで、江戸時代末期には鉱脈は涸渇して、ほとんど衰退していました。
 けれども明治時代に入って事態は一変しました。この足尾銅山を明治政府は民間に払い下げたのです。明治政府に、もう有望な鉱脈が期待できないと言われていた足尾の銅山を再開発する財政的余裕がなかったのです。この鉱山に目を着けたのが古河財閥の創始者古河市兵衛(ふるかわいちべえ)でした。彼は1877年この銅山の経営に乗り出します。
 1881年になると、欧米から導入した新しい探鉱技術によって、足尾に次々と有望な鉱脈が発見されます。戦後にまで至る足尾の繁栄のもとづえができたのです。それは日本国家の産業立国には大いに貢献するものでありましたが、このことが足尾の山々に源を発する渡良瀬川に大きな災厄をもたらすことになりました。
 大量に川に流される選鉱後の鉱毒混じりの土砂。1889年に欧米から導入された機械選鉱の技術はその量を膨大なものとしていました。そして、足尾銅山に直結して建設された当時の最新鋭の精練設備です。1893年、ベッセマー転炉法による大規模精練が可能になったため、排出される亜硫酸ガスも急激に増大して、足尾の山の木々を一気に枯らしてはげ山にしていきました。また、水と反応してできた硫酸の混じった排水が渡良瀬川に流され続けたのですから、流域の人々はひとたまりもありません。渡良瀬川の水を飲用にすれば、それは人々の体をむしばみます。渡良瀬川の水を引いた田では稲がどんどん枯死します。洪水で押し出された泥水に混じっている銅とその化合物、また硫酸は稲の枯死する範囲をぐっと拡大します。


 その恐るべき洪水が渡良瀬川流域一帯を襲ったのは、おりしも日本ではじめて行われた衆議院選挙、それに続く第一回帝国議会の開かれることになる1890年(明治23年)の夏のことでした。渡良瀬川流域を襲った大洪水が栃木県・群馬県に甚大な被害をもたらしたのです。それまで、たとえば1885年(明治18年)には「朝野新聞」によって、渡良瀬川で鮎の大量死があったことが報道され、その原因として足尾銅山からの鉱毒が示唆されるなど、足尾の鉱毒問題が少しずつ話題になりはじめてはいましたが、人々の関心はそれほど高くなかったのです。けれども、もう事態は容易ならざるところまで来ていました。

 先の第一回帝国議会議員選挙で初当選を果たしていた田中正造は、このことが重大かつ緊急の社会問題、そして政治的問題であることをただちに理解したのです。洪水が起こったのは1890年8月。水田被害の深刻さが判明したのはその少し後でしたので、11月に開かれた第一回帝国議会には、田中正造の調査は間に合いませんでした。そこで、彼は、現地での詳細な調査をもとにして、翌年の第二回帝国議会で質問に立ちます。田中正造の足尾鉱毒とのたたかいの始まりでした。

 田中正造が渡良瀬川の鉱毒問題で、政府を責め、足尾銅山の操業停止を求めたことについては、歴史の教科書にも公民の教科書にも載っています。それは日本の反公害闘争の最初であり、原点であるからです。日本は、この公害の悲惨さをまっすぐに真摯に受けとめなかったために、戦後、水俣湾や阿賀野川の水銀汚染を引き起こしただけでなく、それを長く放置して被害を拡大させました。神通川のカドミウム汚染、四日市の大気汚染と、日本は常に企業寄り、産業寄りの姿勢をとって、その被害をいっそう深刻なものにしてしまいました。
 今も、谷中湖を運営する「渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団」からは、反足尾鉱毒闘争のなかでの旧谷中村民の悲惨で過酷な日々は語られることはありません。何事もなかったかのように、豊かだった谷中村の生活が振り返られるだけです。そこにあるのはあくまでも楽しい谷中湖、明るい谷中湖なのです。その暗い過去は谷中湖の「アクリメーション」のなかですっかり水に流されてしまったかのようです。たぶんこれが「行政」=「官」というものなのでしょう。
 だからこそ、「民」というものがどれだけ大切かが、大切にされている社会であるかが問われるのです。


 ◆田中正造◆

 田中正造は帝国議会のなかでの反公害闘争に失望します。時の政府が田中正造の質問を無視する姿勢を見せ始めたからです。1900年、田中正造は時の内閣総理大臣山県有朋に、「亡国に至るを知らざれば之即ち亡国の義につき質問書」を提示しますが、山県首相は「質問の意味がよくわからない」と言って、最近のどこかの首相のようにまるで何処吹く風といった対応をするのです。政府の無視の姿勢は明らかでした。国会での活動に限界を感じた田中正造は、翌年10月衆議院議員を辞任すると、同じ年の12月10日、帝国議会の開会式の帰りだった明治天皇の車列に飛び出し、足尾鉱毒問題解決のための「直訴」をしようとします。けれども、その場で警護の警察官たちに取り押さえられて、その「直訴」はなりませんでした。
 この天皇への「直訴」をどう見るかは、評価の分かれるところですが、政府は田中正造のこの行動をさえまったく無視しようとします。何事もなかったかのようにその日のうちに田中正造を釈放するのです。彼を「不敬罪」などの罪に問い、刑事裁判となれば、鉱毒被害の凄惨さがいっそう天下に白日のものとなります。「不敬罪」であれば天皇の耳にも入らざるを得ません。そうすれば「直訴」成功と同じ効果があります。田中正造のねらいはそこにもあったのでしょう。そして政府はそれを最も恐れたのです。「くさい物には蓋」のきわめて伝統的な処置でした。


 田中正造については多数の伝記、研究書が出されています、また、田中正造自身の演説・国会質問・著述などを網羅した『田中正造全集』が岩波書店より刊行されてもいます(全20巻、1977~1980)。
 以下に少し掲げておきましょう。


 岩波書店からは上の全集刊行以降に新たに発見された書簡などを集めた『亡国の抗論-田中正造未発表書簡集』(2000)、『田中正造』(由比正臣著、1984年)などが出版されています。また、晶文社からの『田中正造伝』(ケネス・ストロング著、川端康雄訳)は、英語圏向けに英文で書かれた著作の翻訳です。文芸書では、大鹿卓による『渡良瀬川』・『谷中村事件』の二部作があります(どちらも1972年新泉社にて復刊)。城山三郎の『辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件』(1962年、角川文庫)、立松和平『毒-風聞田中正造』(1997年、東京書籍)などがあります。また児童向けには、児童文学作家大石真の『たたかいの人-田中正造』(1971年)という伝記が出されています。 中学・高校生のためには岩波ジュニア文庫から『田中正造』(佐江衆一著、1993)が出ています。
 このほか、『田中正造 21世紀への思想人』(小松裕著、筑摩書房、1995)は、田中正造の思想的有効性が現代に力をもっていることを証明しようとした著作。
 地元(宇都宮)の出版社、随想舎からは大手新聞社の宇都宮支局が連載したシリーズを単行本化しています。朝日新聞社宇都宮支局編は『新田中正造伝』、毎日新聞社宇都宮支局は塙和也との連名で『鉱毒に消えた谷中村 田中正造と足尾鉱毒事件の100年』、読売新聞社宇都宮支局編では『渡良瀬100年 自然・歴史・文化を歩く』。
 どうです。こうして並べてみると、各新聞社のスタンスの違いが際だっているとは思いませんか? 人物論あるいは評伝の朝日、公害闘争史の毎日、文化と自然のなかにすべてを嵌め絵のように組み込み、公害史としての焦点をぼかした読売、とでも言えばいいでしょうか。


 田中正造伝の最も古いものは、木下尚江になる『田中正造の生涯』です。この伝記は、先のケネス・ストロングが田中正造伝を執筆するきっかけとなったものだと言います。また、田中正造に関して書かれたものの最も古いものは、、荒畑寒村の『谷中村滅亡史』(平民書房1907年-岩波文庫から1999年に復刊)で、多数のページが田中正造について割かれています。

 さて、田中正造について、少し書いておきましょう。
 彼は、まだ日本が明治を向かえるずっと前の1841年(天保14年)、下野国安蘇郡小中村(現在の栃木県佐野市小中町)に、名主の家の子として生まれました。
 明治の世になる直前、彼は領主六角家に政治的な要求を出して捕まり、投獄されます。明治の世になって恩赦により釈放されますが、1871年には任地の秋田でまた投獄されます。殺人の疑いでした。真相はどうやら、上司によって讒訴されたということのようです。濡れ衣でした。その詳しい理由はわかっていませんが、田中正造の性格から考えると、彼が上司の不正をきびしくただそうとしたか、あるいは住民の側に立って激しく上司と対立したかしたために、かえって強い憎しみを買い、報復を受けたということのようです。
 1874年、ようやく冤罪が晴れて釈放され、生地の小中村に戻ります。


 田中正造の政治への関与は、彼が地区の区会議員になり、さらに創刊されたばかりの「下野新聞」の編集長になったころからでしょう。1879年(明治12年)のことです。彼は自由民権運動に賛同して、新聞紙上で強く国会の開設を訴えています。1880年には栃木県議会議員となりますが、時の栃木県令(今の県知事です)三島通庸(みしまみちつね)と対立して、今度もまた加波山事件(自由民権運動による武装蜂起事件のひとつ)に関連ありとして逮捕されます(1885年)。三島通庸と言えば、自由民権運動を目の敵のようにして弾圧したことで知られている人物です。当然田中正造の彼への反発も強かったことでしょう。
 けれどもわりあいあっさりと釈放されます。彼を冤罪で罰することは、あるいは民衆が許さなかったのかも知れません。その証拠に、翌年彼は、栃木県議会議長となっています。
 時の理不尽な権力とは激しく対立する一方で、人々の人望を集めていたことが、このことからも知られます。無私の精神が人々に信頼されたからでありましょう。
 この権力とのたたかいの無私の姿勢は彼の人生を貫いていました。
 その彼の人望、指導力、清廉潔白さは、時の政府にも手の打ちようがなかったのでありましょう。ために、彼が居をそこに移してまでたたかい続けた場所、そのかんじんな場所を奪い去ることを画策するほかなかったのです。最も豊かであっただけに、その鉱毒被害が最も悲惨な生活へと追いこむことになった谷中村。村民は田中正造の優れたリーダーシップで一つにまとめ上げられますが、巧妙になだめすかされ、脅されて一人またひとりと切り崩されていきます。
 一連の鉱毒事件の中で最も被害が大きく、そのために最も鉱毒反対運動が激烈だった谷中村だけが政府の最終ターゲットにされてしまったのです。谷中村を周辺の村から孤立させることが、政府や栃木県の鉱毒反対闘争つぶしの最も強力な手段となります。そして、十分に孤立したところで、一気に廃村に追いこむ。その計画はひそかに進められ、実行に移されたのです。
 先にも書きましたが、1907年(明治40年)、谷中村全域に「土地収用法」が適用され、残されていた家屋が無理矢理破壊され、村民全員の退去が命ぜられました。翌年には、旧谷中村の村域が河川地域の指定を受け、地図上からまったく谷中村の名称は消え去りました。


 田中正造は、1904年(明治37年)ころから、実際に旧谷中村に住み、ここから鉱毒反対運動を指導していました。谷中村廃村後もその地に住み続け、絶望的な状況の中で反対運動をさらに続けます。けれども、1913年(大正2年)、死期を悟った彼は、関東の反対運動支援者の家々をまわって最後の挨拶をします。彼のいなくなった後も、反対運動を支援してもらいたいという一心からでした。その途次、支援者の一人の家で倒れ、その1ヶ月後に亡くなります。死因は胃がんであったと言われています。1913年9月4日のことでした。享年71歳。

 ◆『谷中村滅亡史』◆

 繰り返しになりますが、谷中村は、その全域が1907年6月29日「土地収用法」の適用を受けます。このときまで谷中村から梃子でも動かないと決めていたわずかな村民(16戸)が、家屋の強制破壊を受け、強制的に暴力的に退去させられます。
 その同じ年の8月25日この『谷中村滅亡史』が出版されます。わずか二ヶ月の間に執筆され印刷され製本されたのです。当時、機械化されていたのは印刷工程だけでしたから、その他はもっぱら手作業で行われたということを考えると、驚異的なスピードでした(かなりの誤植もあったようですが)。
 版元の平民出版は、幸徳秋水、堺利彦らが創刊した『平民新聞』ゆかりの出版社です。著者の荒畑寒村は1887年(明治20年)横浜生まれ。家業の仕出し屋を継ぐのを嫌って横須賀の海軍工廠で働きますが、そこでキリスト教にふれ、さらに労働運動に触れます。その日々のなかで幸徳秋水らの『平民新聞』が掲げた「非戦論」に感動します。彼が社会主義に進むきっかけでした。彼はまずキリスト教徒となり、それから社会主義者となって、日本の社会主義運動のリーダーのひとりとなるのですが、この頃はまだキリスト教に熱心だったようです。
 そのような荒畑寒村でしたが、1905年ころから、谷中村の鉱毒事件の取材を始めて、その記事を「忘れられたる谷中村」、「棄てられたる谷中村」などの題で雑誌に寄稿しています。また、『平民新聞』にも取材記事を連載するなど、当時の寒村の主要なテーマでありました。その取材の過程で幾度も田中正造に会い、ついには「谷中村について一書を著す」ことを、田中正造自身から懇請されます。そのことは『谷中村滅亡史』巻頭の「自序」にさらりと記されています。


 「今年六月十日、田中正造翁とともに谷中村を訪(と)う。当時翁予に語って曰く、希(ねがは)くば他日谷中村のために、一書を世に訴へよと。而して帰来していくばくもなく、谷中村破壊の悲報は来たって予の耳朶を打てり。予痛憤措く能はず、直ちに筆を執って草したるもの、即ち本書なり。
    <中略>
 ああこの一書が、予の対(むか)って谷中村問題の真相を語るの時、顧みれば谷中村は、已(すで)に滅亡してあらざるなり。稿を終えてこれを思ふ。哀愁胸に迫って、涙雨の如し。


 日付けは「「明治40年7月」とあります。6月29日に谷中村の強制廃村があったのですから、本当にその直後に執筆されたことがこの日付からわかります。

 その内容に激越な表現があるのは、彼の若さがしからしむるところなのですが、けれども、けっしてその時だけの一時的な憤怒によって勢い込んで書かれたものではないことが、この「自序」には現れています。2年間にわたる谷中村、足尾銅山などの取材活動を通じて、丹念に拾われてきた事実を背景にして、それは書かれているからです。
 その最初の部分、「緒言」から少し引用させてもらいましょう。
 当時の最も心ある青年が、足尾の鉱毒被害について、谷中村の強制廃村について、どのような思いを抱いたか。その思いの丈がここにはよくあらわれています。


 ああ谷中村は遂に滅亡したる乎(か)、二十年の久しき、政府当局の暴状を弾劾して、可憐なる村民のために尽瘁(じんすい)し来たれる、老義人田中正造が熱誠は、空しく渡良瀬川の水泡と消え去るべき乎。而してまた、流離し、顛沛(てんぱい)し、漂零(ひょうれい)し、落魄して、なほかつ墳墓の地を去るを拒める村民が苦衷は、巴波川(うずまがわ)の渦巻く波とともに亡び去るべき乎。
     <中略>
 谷中村の今日ある、けだし遠く因を鉱毒問題に発す。見よ、明治十年政府の足尾銅山を古河市兵衛に貸与するや、古河のこれを経営する、実に巨万の資本を投じ、精巧の機械を設けて採鉱に従事せり。爰(ここ)においてか銅の産出俄に増加して、ほとんど鉱業界の面目を一新したりき。しかれども世人が、この表面の鴻益(こうえき)に歓呼喝采しつつありし時、何ぞ知らん、銅鉱より出づる悪水毒屑(あくすいどくせつ)は、山林濫伐に伴って起こる洪水のために、澗谷(かんこく)を埋め、渓流に注ぎ、渡良瀬川の魚族を斃(たお)し、両岸の堰樋(せきひ)を通じて田圃に浸潤し、草木を枯らし、田園を荒廃せしめ、人は病むも医薬を求むるに術なく、児は胎むも空しく流産し、たまたま生るるあるも含むところの母乳はこれ毒水、ああ昔は豊田千里と謡はれし関東の沃野、鶏犬の声絶えて、黄茅白葦(こうぼうはくい)徒(いたずら)に茂く、終に一個蕭条索落(いっこしょうじょうさくらく)たる荒野の原と化し終わらんとは。


 このとき、荒畑寒村弱冠二十歳でありました。

 これだけの熱っぽい表現であれば、多くの人の心を、わけても若い人の心を強く動かしたことでしょう。そう。それは想像するほかありません。なぜなら、出版と同時に「発禁処分」を受けたからです。長く日の目を見なかった著書は、ようやく戦後かなりの時を経て、たくさんの人の目に触れることとなりました。

B0001745

サクラソウ。地球の寒冷期に渡良瀬川沿いに上流から分布を広げ、温暖な気候の今は渡良瀬遊水地にわずかに残るレリックのような存在。


 ◆平和な時代の平和な姿◆

 あれほどに悲惨な問題をまき散らし、いくつもの農村を破壊した足尾銅山は、さしも豊かだった鉱脈が絶えて廃鉱となり、公害の象徴のような精錬所も閉鎖されて、かつては隆盛を極めた足尾にはもう、見る影もありません。足尾がさびれてしまえばもう、足尾から新たな鉱毒物質が垂れ流されることはなくなりました。
 けれども、銅精錬所の排煙によって荒廃した足尾の山々はいまもって裸地をさらして、毎年ボランティアによる植林活動が続けられていますし、渡良瀬遊水地に沈殿してきた鉱毒物質が消滅したわけではありません。


 足尾からの鉱毒の排出がなくなると、政府は、鉱毒沈殿の役割を終えたとばかりに、旧谷中村一帯に、こんどは飲用水のための貯水池を造成しようとしたのです。東京都の夏の渇水対策として、というのがその貯水池建設の名分でした。
 結局、上に書いたように、アオコが発生しやすいなど、その水質の悪さもあって、渡良瀬遊水地は、「谷中湖」一つだけの造成に終わりました。残りの土地は洪水調整用として、その貴重な植生とともに保存されることになったのです。


 現在は、谷中湖は飲用水のための貯水池というより、レジャーのための施設の観を呈しています。谷中湖を周回するサイクリング道路もあり、またヨットやウインドサーフィンなどが盛んです。クチボソ(モツゴ)やフナなどの淡水魚類も豊富です。しかも、湖を餌づりエリアとルアーづりエリアに分けるなど、きめの細かいサービスも行われています。まぁ、言ってみれば貯水池としての利用はすこしく断念して、管理釣り場のような使い方をしていると言えばいいのかも知れません。
 
 ◆平和だったかつての村の思い出に◆

 上の方で、「シード・バンク」と言うことを書きました。
 平和だった時代の、豊かだった時代の旧谷中村時代に地中に蓄えられた無数のそして多様な種子たち。水田耕作の邪魔になると、あるいは目の敵にされ、あるいは食草や薬草として利用されることもあった植物の多くが、いつか地上に現れる時を待ってじっとしているのです。
 そして、ある日、掘り返し好きのお役所が。彼らを長い眠りから覚ますのです。それは、ある意味で過去の谷中村を語るかのようです。美しい田園風景の面影をそれはいっとき描き出すのです。それらのよみがえる花々は、旧谷中村廃村の思いのこもったある種の墓碑銘であると言ってもいいのでしょう。
 これからいくたびも、遊水地が掘り返されるたびに、村をつぶされてしまった旧谷中村の人々の悲しい墓碑銘のように、その時代に栄えた植物たちがまざまざと姿をあらわすことでしょう。その最も美しい墓誌がミズアオイでした。その写真は、次に紹介する植物のサイトの表紙を飾っていますから、ぜひ一度ご覧になってください。残念ながらぼくはミズアオイの写真をもっていません。


 そこでこのサイトを紹介することにしましょう。ぼくが最も紹介したかったサイトがじつはこれでした。
 渡良瀬遊水地の植生調査に20年以上の歳月をかけてきた植物学の研究者が開設しているサイトです。こちらは、美しい花々の写真とともに、渡良瀬遊水地の植物が紹介されています。また、渡良瀬遊水地の情景写真なども充実しているサイトですので、ホッとできる人も多いのではないでしょうか。 サイト名、URLは次のとおりです。


 「渡良瀬遊水地の植物」

 http://www.ryomonet.co.jp/mo/mo/

 自称MOさん。大和田真澄さんは、『渡良瀬遊水地の植物図鑑』の監修と解説をされるなど、渡良瀬遊水地の植物については、日本の第一人者です(ということは世界でも)。目標物のない広大なアシ原をまったく迷うことなくあちこち歩き回れるほど、渡良瀬遊水地のことは熟知されています。
 今はすでに退職されていますが、つい数年前まで障害者教育にも携わってきていた関係から、その人たちの詩や文章を紹介したページも、このサイトからのぞくことができます。

Mizuao081

ミズアオイ。大和田さんのサイトから、許可を戴いて転載しました。これと同じ画像が「渡良瀬遊水地の植物」の表紙を飾っています。


 そうそう、大和田真澄さんは、コーヒー豆の焙煎が趣味で、もう二十年以上も焙煎方法を科学的に研究してきています。そしてついに、その科学的に解明した焙煎技術をもって、焙煎珈琲のネットショップを開設してしまいました。まさに「病膏肓に入る」を地でいっています。
 ぼくはずっと昔から彼の焙煎のファンでしたから、今はもっぱら彼の焙煎した豆でコーヒーを飲むようになっています。その焙煎所もここで紹介しておきましょう。


 コーヒー焙煎所グランチーノ

 http://cafe-grancino.com/

 どの焙煎も相矛盾し合うような深みとあっさりさとがよくバランスされていて、後味の良さが焙煎の質の高さを証明しています。そのなかでもコロンビア・スプレモのフレンチ・ローストが特にお奨めできそうです。深炒りのくせに嫌な苦みがなく、香ばしい香りを楽しむコーヒーです。その辺の炭火焼きよりもよほどおいしいのです。これからはアイス・コーヒーの季節ですから、アイスにして飲んだり、アイス・カフェ・オレにしてみたりと、いろいろに楽しめそうです。そうそう、このコーヒーでコーヒーゼリーを作ると。。。。。ははっ、よだれが出て来てしまいました。
 値段は若干高めですが、その値段を裏切らない味と香りです。
 話がすっかりそれてしまいました。

B0001698

渡良瀬遊水地のチョウジソウ。


 ◆チョウジソウのこと◆

 ぼくがどうしても渡良瀬遊水地に行きたいと思った最初は、チョウジソウの群生地があるからでした。それにサクラソウ、タチスミレ、マイヅルテンナンショウ、たくさんの植物がぼくの心を魅了しました。
 けれどもぼくの心をいちばん惹いたのはどうしても「青い花」です。ノヴァーリスではありませんが、チョウジソウの「青い花」には鉱物の面影があるようにも思われたのです。
 その「青い花」の気品からか、かなりの盗掘が行われているようで、環境変化や土木工事のせいというよりも、相次ぐ盗掘のために絶滅に瀕しているというほうが当たっているようです。そのため、現在の生育場所を特定できるようなデータはまったく明かされていませんから、大和田さんに連れて行ってもらうほか、出会うチャンスはありません。

B0001712

チョウジソウ。離弁花のように見えるが、花のもとのところは一つになって筒状になっている。


 この植物はキョウチクトウの仲間です。キョウチクトウの仲間の多くは木本ですから、このような草本の種は珍しいのです。キョウチクトウ科は世界に約2000種があると言われていますが、日本にもともと自生するのはわずかに6種。その半分が木本で、残りが草本です。庭木などでよく見られるキョウチクトウはインド原産で、日本には江戸時代に渡来したと言われています。これは渡来種ですのでこの6種のなかに含まれません。

 自生種で注目しておきたいのはテイカカズラです。漢字で書けば「定家蔓(ていかかづら)」。藤原定家にゆかりがある、というかまつわるお話を秘めているツル植物です。謡曲『定家』では、このツルは年上の人、式子内親王(しょくしないしんのう、しきしないしんのう、とも)を恋慕して止まなかった定家の怨念あるいは妄執の怨霊と言われているのです。その怨霊が式子内親王の墓に絡みついて、内親王を苦しめているというお話です。
 謡曲『定家』の中では旅の僧がお経をとなえ、それによって絡まっていたテイカカズラがほどけて消え去ります。となえたお経は『法華経(ほけきょう)』のうちの「薬草喩品(やくそうゆぼん)」です。このお経には、「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしっかいじょうぶつ=無生物や無情の生物も、みんな仏になれる)の教えが諭されていますから、それを定家蔓に申し渡して、定家の怨霊を成仏させるのです。
 それにしても、藤原定家(1162~1241)と式子内親王(?~1201)とでは歳が違いすぎて、定家と式子内親王の恋物語はまるっきりの虚構だと言われています。物語では、式子内親王と定家が恋をかわしたのは、彼女が齋宮を退いた時からという設定なのですが、じっさいは内親王が齋宮を退いた時、定家はやっと八歳でした。
 あるいは、事実としては、式子内親王が定家のお父さんである藤原俊成の歌の弟子でしたから、定家は小さいころからよく見知っていて、幼いころからのあこがれの人であったのかも知れません。


 キョウチクトウ科の植物は、花に螺旋状にすこしねじれるような感じがあるので、そのわずかなねじれが、テイカカズラ自身の生命力の強さとともに、まとわりつく怨念のイメージを増幅したのかも知れません。スギやヒノキなどの薄暗い林床にきまってはびこるのはテイカカズラです。京都近郊の北山杉などの林床から樹幹には、きっとびっしりとはびこっていたのでしょう。謡曲『定家』でも、式子内親王の墓にまとわりつくテイカカズラをきれいに引き抜いても、翌朝にはまたぎっしりと絡みついていた、という話になっていて、テイカカズラの生命力のすごさがこの物語の背景にあることが知られます。

 その花のわずかなねじれの感じは、ツルニチニチソウという園芸品種にもよく現れています。これはヨーロッパから輸入されたもので、学名がVinca major(ウィンカ マヨール)であることから、ヴィンカなどと呼ばれることもあります。これもまたキョウチクトウの仲間です。正面から花を見ると、花びら(裂片)の配列に微妙なずれがあって、どこか素直な感じでないのが面白いところです。ヒメツルニチニチソウは、この花の少し小型のもので、学名はVinca minor(ウィンカ ミノール)といい、これも園芸用に日本に輸入されています。
 また、キョウチクトウ科の植物は毒をもっているものがほとんどで、逆にその毒が医薬品として利用されても来たようです。ツルニチニチソウも血流を抑制したり、潰瘍を抑える薬草として知られています。

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ツルニチニチソウ(Vinca major)の花。丹沢の麓ではまるで自生種のようにはびこっていた。


 チョウジソウの「チョウジ」は「丁子」のことで、つまりよく知られているクローブのことです。このクローブの実をとる「チョウジノキ」の花によく似ていることから、この名がつけられたといいます。花の感じもちょっと異国風なところがあるので、あるいはひょっとしたら、ずっとずっと昔、稲作などともに中国から日本にやってきた植物なのかもしれません。分布域も中国から朝鮮半島まで含まれますが、北海道には分布しません。 クローブのほうはハーブですが、チョウジソウのほうは毒草です。麻酔効果があるとされていますが、薬草にされたことはないようです。
 一方、学名のAmsonia elliptica(アムソニア エルリプティカ)のアムソニアは、アメリカの植物学者Amson(エイムソン)にちなんだ名だと言うのですが、どんな人かはわかりません。一方の種小名エルリプティカは「楕円形の」という意味の形容詞の女性形です。花びらが細長い楕円形であることから名づけられたようです。なお、キョウチクトウ科は合弁花の仲間ですので、花びらはもとのところで一つになっていて、それぞれの花びらは「花弁」ではなく、「裂片」と呼ばれます。合弁花の花のことを特に「花冠」と呼んでいますが、その「花冠」の途中から先端部にかけて、いくつかに分かれているからです。写真で見るとおり、チョウジソウやツルニチニチソウでは五つに分かれています(植物図鑑などでは「五裂している」と言います)。あっ、そうそう、テイカカズラの白い花も大きく五裂していて、一見するとそれぞれが独立した花弁のように見えます。

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チョウジソウを真横から見るとこのとおり、花には長い筒状の部分がある。
●ツユクサは日本中どこにでもある雑草●
Dsc00002_2 ツユクサ:黄色の葯をつけているのは仮おしべ。花弁は上2枚が青く、下の1枚が白い。
 ツユクサは、道ばたなど、日本のどこにでも普通に見られる。6月頃から9月頃まで、次々に花をつけていく息の長い花である。すかすかの中空の茎は、その下部が縦横無尽にのびて、あたりにいっぱい広がっているが、これで一年草である。毎年花から実をつけて、その種子で越冬し、春過ぎて芽を出して、毎年、毎年かわらず道ばたはびこる。なかなか生命力の豊かな花とも言える。コバルトブルーの花の色は、よく水に溶け出すため、昔染色に使われたという。

 ○にせのおしべ、仮おしべが鮮やか●

 鮮やかな黄色の葯がよく目立つおしべは、じつは葯の中に花粉がない。花は蜜も出さない。このおしべは言わば見せかけである。「仮おしべ」(古くは「仮雄ずい」と言った)と呼ばれるもので、本来のおしべが退化したものである。花柱と一緒に長く突き出た目立たない茶色の葯をもつ二本のおしべだけが、真正のおしべである。ここからは花粉を出す。
 進化の途上で、鮮やかな色の仮おしべは、ポリネーターの昆虫を引きつけて、まんまとだます役割を担うようになったらしいのだが、最終的にはそれも稀になり、現在では自家受粉がもっぱらである。花に蜜腺がないので、昆虫はそれを知っていて、この色の鮮やかさには惑わされないのである。

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長く延びている二つのおしべ。茶色の葯をもつ。もう一本長く延びているのは花柱である。


 ○節約型の繁殖戦略○

 あるいは、おしべ全部に花粉を作り、ポリネーターのために蜜を提供するというような、エネルギー多消費型の受粉システムから、小消費型のつまり、節約型の受粉システムにシフトしている途上なのかも知れない。ポリネーター依存の他家受粉から、自前で処理する自家受粉のシステムに移行中というわけである。だから、朝花を咲かせると半日もしないうちにしぼんでしまう。花がしぼむときには、長く突き出た花柱とおしべが接触するので、そのときさっさと自家受粉してしまうのである。
 受粉を媒介するポリネーターたちへの蜜のサービスや、せっかく作った花粉を虫さんたちに食べられてしまうというリスクを、そうしてぐんと減らしてしまった。そのため、エネルギーは植物体を繁茂させることにたくさん使えることになって、あたりいっぱいに広ごり溢れることになった。広がれば、節約して作った種子をあちこちにばらまける。
 たくさんの草々が競合する中で、茎を伸ばし、いくつも分枝して空間を占有するために集中的にエネルギーを使えるというのは、ツユクサの戦略の成功ではあるけれど、自家受粉とはつまり、自分そっくりの子孫を残すことである。一方、遺伝的多様性を確保するという点から見れば、他家受粉タイプの植物に比べれば、かなり劣ることも事実である。遺伝的多様性は、多様な環境対応能力を、その種に幅広くもたせることになるから、何らかの環境変動が起こった場合、とりあえずその種のどれか一部が生き残れる可能性を確保することができる。種の全部が同じような環境対応能力しか持たなければ、環境が急激な大変動に至ったとき、その種を保存、維持させることがきわめて困難になる可能性がある。

 けれども、いつ起こるかわからない生育環境の急激な大変動のために、毎年、毎年たくさんのエネルギーを投下して遺伝的多様性を確保するというのは、確かに無駄が多いやり方であると言えなくもない。
 そのような大変動が起こらないかぎりでは、自家受粉をもっぱらにするというやり方は、その生育環境下でその種を繁栄させるという点においては、他の植物よりかなり有利である。大規模で急激な環境変動が起こらなければ、ツユクサはこうして、節約型への道をさらにまっしぐらに行くのであろう。やがては、あんな華麗な色の仮おしべも消えてしまうかもしれない。自家受粉には目立つものをなにも必要としないからである。ひょっとしたら、花を開くこともせず、スミレの閉鎖花のように、閉じた花の中で、かってに自家受粉するという超節約型システムにまで達するのかも知れない。

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午後になってしぼんだ花。中におしべと花柱が折りたたまれている。

 ○最も節約型の繁殖システムは栄養繁殖○

 
 最も節約型の繁殖システムをとる場合には、繁殖のための特別なエネルギーをまったく投下しないという方法もある。いわゆる栄養繁殖と言われるものである。地下茎や地上茎をあちこちに伸ばして、それで新しい根を出し、新しい株をあちこちにつくる。地上に立ち上がった新しい茎や葉は、つまり親株のクローン、コピーである。あるいは、里芋などの一種のように、むかごをつくって、それで子孫を繁殖するという方法もある。いずれにしても有性生殖とはまったく異なる殖やし方である。けれども節約型の繁殖方式の最終的に行き着くところはこれである。
 このとき、植物体自身の成長と繁茂に、繁殖のエネルギーも還元されてしまうため、たがいにトレードオフの関係にあるはずの、繁殖エネルギーと植物体増大エネルギーとの配分に悩むことがなくなるのは、植物にとってひとつの理想である。

 植物に限らず、有性生殖をする生物はどれも、繁殖のためにどの程度のエネルギーを投下するのか、その生物自身の成長と体勢強化にどれほどの割合でエネルギーを投下できるのか、という問題を抱えている。そしてこの問題は、有性生殖をする生物にとって、あまりにも悩ましい、悩ましすぎる永遠のテーマであるとも言える。この配分のいかんによっては、環境変動への多様な対応を確保する以前に、他の種との競合に敗れてしまうこともあるからである。先ず、みずからの個体を成長強化して、まさに生育しているその場その場で勝ち残ることができなければ、繁殖そのものが不可能になるのである。

 ○ツユクサの繁殖戦略は中途半端?○

 そのようなことを考えてみると、現在のツユクサの繁殖戦略は、どうもどっちつかずである。退化した仮おしべを後生大事に華麗に飾っている点などは、やはり自家受粉のシステムから見れば、無駄である。繁殖エネルギー節約のために、すでに蜜をつくることをやめ、花粉の産生も最小限にとどめた。けれども、やっぱりいつでも多消費型の繁殖システムに戻れるようにと、退化した仮おしべを捨てることができないでいる。
 ということは、これから先、急激な変動がもし万が一起こったら、これまでの進化の向きをがらりと変える可能性もあると言えるのかも知れない。大きな環境変動に見舞われたとき、ツユクサはきっとそそくさと、黄色の仮おしべにも花粉を仕込み始めるに違いない。そうして、ふたたび遺伝的多様性を展開させる道へと舞い戻るのであろう。もっとも、そのようなおっとり刀で、急激な大変動に間に合うかどうか?
 あるいは、ツユクサの遺伝子には、そのようなとき、とりあえずしのげるための仕掛けが隠されているのかも知れない。必死になって環境変動をやり過ごしながら、進化の向きをぐいぐいっと変えるのであろうか? あるいは、人類が滅びた後に、新たな繁殖戦略を獲得した次世代型ツユクサがいっそう鮮やかなコバルトブルーの花弁をもって、いっそう華麗に着飾った真正おしべを誇らしげに宙に突き出すのであろうか? そして、ポリネーターを呼び込むためにいつか蜜腺までもつようになるのかも知れない。

 それはそれで華麗な変身ではあるが、そのために現在やっていることはといえば、つまり「二股膏薬」。
 やはり、どこか中途半端で、いつまでもどっちつかずの花である。

 ○ツユクサはツユクサ科○

 さて、最後にツユクサの基本的な事柄を書いておこう。
 学名は、Commelina communis(コンメリーナ コミュニス)。属名コンメリーナはオランダの植物学者コメリンにちなんだものだというが、どのような植物学者かは目下のところ不明。種小名のコミュニスは、「普通の」あるいは「共通の」という意味である。どこにでもある普通のタイプという意味であろうか。日本語属名は「ツユクサ属」。
 分布は、日本列島、樺太、朝鮮半島から中国大陸北東部、シベリアのウスリーあたりまで。北米大陸には野生化したものがあるという。もともと、ツユクサの仲間は熱帯地域に偏っており、日本のツユクサはツユクサ科の中でもかなり北方へと突出して分布しているようである。同じツユクサ科で日本に自生しているものでは、ヤブミョウガがある。葉などがミョウガによく似ているからこの名があるが、食卓に出るミョウガの仲間ではない(ミョウガはショウガ科)。
 花弁は3枚。上の2枚が円形で大きく、これがよく目立つコバルトブルーをしている。もう一枚は花の下側につき、白色で小さい。大きな苞葉に包まれたつぼみから苞葉の外に飛び出るような感じで花を開く。朝開くと、午後早くにはしぼんでしまう。図鑑などには「一日でしぼむ」とあるが、半日程度しかもたないようである。なお、英語名はその一日に着目したのか、dayflowerと言う。あるいは、北米大陸に野生化したものは、もう少し長く咲いているのかも知れないが、それについては未確認である。

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4本の仮おしべのうち、1本がちょっと長い。
●人間に寄り添うものたち(2)●
-キク科の植物-


 レタス、ゴボウ、フキ、ツワブキ、アーティチョーク、チコリー。これらはすべて同じファミリーです。これにシュンギクを加えれば、そのファミリーがキク科であることはすぐにわかることでしょう。

 ◆レタスのこと◆

 レタスは、ペルシャ原産の植物とされています。和名「チシャ」。『倭名類聚抄(わめいるいじゅうしょう)』(923~930成立)に、「チサ」として記載されているものがそれのようです。この頃には、絹の道(シルクロード)をたどって、日本にもやってきていたということなのでしょう。けれども、この「チサ」は、ふつうに店にならんでいるレタスとは違って、あんなふうに丸まっていません。今、「カキヂシャ」とか「セルタス」と呼ばれているものにあたります。
 現在、レタスとしてお店に出ているものは、「タマヂシャ」というタイプのもので、日本には幕末にアメリカ合衆国から紹介されたようです。けれども、この「タマヂシャ」が本格的に栽培されるようになるのは太平洋戦争後でした。進駐軍の要求によって、米軍将兵のために栽培されたのが始まりと言われています。その後、日本人の食生活が洋風化するようになって、日本人の食卓にもよく並ぶようになったものです。
 花は一見してキク科とわかるものです。
 白いタンポポのような花、と言えばいいでしょうか。
 タンポポの仲間と同じように、茎を折ったり傷つけたりすれば、茎からは白い乳液状の液体がでます。この花の学名はその白い乳液にちなんで名付けられています。
 Lactuca sativa(ラクツーカ サティウァ)。
 このうちの、Lactucaが「乳液の出る」という意味です。種小名のsativaは、「栽培された」という意味で、この植物に学名がつけられた頃には、すでにヨーロッパ各地で栽培されていたことを意味します(命名者はリンネ)。日本語属名はアキノノゲシ属と言います。
 なお、サラダ菜と呼ばれているものも、レタスの一種で、品種が異なるだけです。

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トネアザミ。関東の山地や高原ではふつうに見られるアザミ。

 ◆ゴボウのこと◆

 ゴボウは、現在もヨーロッパからシベリア、中国東北部にかけて広く自生しているため、その原産地の特定はかなり難しいのですが、現在までのところ、地中海沿岸から西アジアにかけての一帯が原産地として最も有力視されています。けれども、これらの地方で、ゴボウ、つまりキク科のこの植物の根が野菜として利用されたという歴史はまったくなかったようです。
 ゴボウの学名Arctium lappa(アルクティウム ラッパ)の属名の部分のArctiumとは、「熊の」という意味ですから、ゴボウはまったく人間の食用として顧みられることがなかったことがわかります。その一方で、熊がその根を掘って食べることは広く知られていたようです。これも命名者はリンネです。リンネの時代には熊の食べ物として広く認識されていたのでしょう。
 ちなみに、種小名のほうのlappaは、「毬」という意味です。「熊さんの毬」というわけです。

 ヨーロッパでは顧みられなかったゴボウも、日本ではかなり早い時期から、食用として認識されていたようです。『本草和名(ほんぞうわめい)』(898年)にはすでに、栽培種として掲載されているそうですから、日本では中国から渡来してまもなく、食用とされるようになったのでしょう。とはいえ、中国からは薬草として入ったもののようですから、はじめはかなりの高級野菜だったのでしょう。平安時代の日本では、貴族・皇族たちの食べ物であったのではないでしょうか。藤原道長などの摂関家や、紫式部や和泉式部、清少納言がごちそうとして食したのだとすれば、ゴボウにも光り輝く日々があったのかも知れません。

 ゴボウを食用にする、ということについては、日本人はすでに似たような植物の根を、かなり古い時代、縄文時代以前から、食用にしていた経験によると思われます。それは、アザミやヤマボクチの仲間の根です。アザミ、ヤマボクチの仲間はこのゴボウと属は異なりますが、同じキク科の中でも、かなり近縁の仲間です。特に、アザミ属のモリアザミの根は「ヤマゴボウ」の味噌漬けなどのようにして、地方の名産として知られています。また、富士箱根火山帯から南アルプスにかけて分布するフジアザミは、日本で最も大きいアザミですが、その根もゴボウのように香ばしい香りがして、ゴボウと同じように食べることができます。葉も花もおいしいらしく、日本の鹿さん(ホンドジカ)は葉や花を好物にしています。
 ヤマボクチの仲間、オヤマボクチ、ハバヤマボクチはなどは、花もアザミに似ていますが、その根は深く、またかなり太いのです。実際に掘ってみるとその形状はゴボウそっくりです。また、その名の「ボクチ」は、漢字で書くと「火口」。つまり火をつけるとき、この花の総苞片の白い綿毛を使って、そこに火が移るようにしたことから、このように呼ばれるようになったと言われているのです。縄文時代、弥生時代から、種火の火付けのための利用されてきたという、なじみの深い植物だったのです。春先の若い葉はさっとゆがいて食べますから、ヤマボクチの仲間は本当に日本人には重宝な植物だったと言うことができます。

 これらの根を食してきた経験から、日本の古代の人は、ゴボウが、薬用としてではなく、食用として利用できるものであることにいち早く気づいたのでしょう。


 『私は貝になりたい』で、太平洋戦争中の捕虜虐待を問われて絞首刑になる主人公は、親切心からこの仲間の根を捕虜のイギリス兵に食べさせたのですが、そのイギリス兵はそれを虐待の証拠として挙げます。「雑草の根を食べさせられた」というのです。悲しい誤解でありました。その誤解を解くことができなかったことの裏には、植物の利用の歴史の違いが厳然として横たわっています。そして、裁く側の文化や価値観がどれほどのあってはならない死を生んでいたかと言うことも。

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フジアザミ。根は深く太い。とってもおいしいのだが、もちろん野生の
ものの根を掘り出すことは禁じられている。
●人間に寄り添うものたち(1)●
―アブラナ科とモンシロチョウ―


 菜の花、小松菜、のらぼう、ミズナ、京菜、大根、蕪、キャベツ(甘藍)、白菜、ほうれん草。

 これらの中で、一つだけ仲間はずれがあります。どれでしょう?
 それは、ほうれん草! です。
 ほうれん草はアカザ科。ペルシャ原産の野菜とされています。ほうれん草の缶詰のコマーシャルに出て来た「Popeye the sailorman」、つまりポパイで有名になった植物です。日本に入ったのは室町末期、戦国の時代であったらしい。

 さて、本題。
 タイトルにもあるように、このほうれん草以外はすべてアブラナ科であります。アブラナ科はかつて「十字花科」と呼ばれていました。それは花びらが十字架の形に縦・横に並ぶことによります。もっとも、ラテン語科名は今も“Cruciferae”(クルシフェラーエ=十字架を持つものたち)でありますから、実際はその直訳だったのでしょう。けれども、花びらが縦と横に直角になるように出ている典型的な「十字花」ではないものもあるので、日本ではより親しみやすく、代表的な植物の標準和名を科名としたということのようです。十字架状に開くということですから、どれも四弁花であります。


 アブラナ科は古くから人間に親しまれ、食べられてきた植物です。、たとえばキャベツの栽培起源はローマ時代以前にさかのぼるほど古いものであると考えられています。このキャベツの栽培のひろがりにくっついて、モンシロチョウも全世界に広まったと言われています。チョウの仲間で、これほどの世界的ひろがりを持つ種はほかには見あたりません。いかに、キャベツべったりの生活誌を選択したモンシロチョウの戦略が大成功であったかが、わかります。

 上に挙げなかったものをさらに。
 ブロッコリー、カリフラワー、クレソンもアブラナ科です。クレソンは繁殖力が強く、とんでもないところにも群生します。たとえば八ヶ岳の上智大学のソフィアヒュッテの近くの水場にも群生していたりするのです。だれかがここでクレソンを洗ったときに、こぼれ落ちた株がいつの間にか根づいて繁殖してしまったのでしょう。今では雪解けて間もないころから夏までのあいだの、サラダの具に重宝がられていますけれど、いいのでしょうかねぇ。場所が八ヶ岳ですものね。

 そうそう、「わさび」も「からし菜」もアブラナ科です。
 アブラナ科の葉や茎には、多かれ少なかれ、必ず「カラシ油配糖体」が生成されています。それが「わさび」や「からし菜」の「辛み」のもとなのですが、これは虫に食べられないために、進化の歴史の中でアブラナ科が手に入れた戦術であったのです。キャベツにも「カラシ油配糖体」が含まれていますから、本来虫たちはこれを食草とすることはできません。モンシロチョウの幼虫はそれを解毒する酵素を体内に持つことによって、キャベツを食草にできたのです。これも、やはり進化の妙というところでしょうか。
 モンシロチョウは他のアブラナ科の植物も食草にすることができますが、キャベツの栽培面積と量は圧倒的ですから、いかにもキャベツに特化しているように見えるのです。しかも、他の「カラシ油配糖体」をもつ野生の植物よりも栄養価が高いため、キャベツを食草にするのが繁殖戦略としてもっとも効率的であったのです。

 もっとも人間は「わさび」や「からし菜」など、その辛みそのものを食味として利用するわけですから、さらに上手を行っているということになるのでしょう。

 人間が目をつけて栽培を始めてから、モンシロチョウはそのキャベツの栽培面積と共に繁栄を極めてきました。人間が繁栄する限りにおいて、モンシロチョウは世界に飛び続けるでありましょう。そして、人間が滅亡した後にも、新たな繁殖戦略を見出して、生き延びるのでしょう。今ほどの繁栄は得られないにしても。


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写真はヒロハコンロンソウ。アブラナ科の野草です。
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ヴェロニカ・ペルシカ(veronica persica)の花。径1cmほどの
小さな花である。


●早春の花。ヴェロニカの仲間●


 今は、キリスト教の「四旬節」(Lent)である。今年は復活祭が早く、3月23日なので、それに至る四旬節も始まりが早かった。2月6日の水曜日が「灰の水曜日」(Ash Wednesday)で、この日から四旬節が始まったのである。今、まさに真っ最中。

 この季節にちょうどあわせるかのように咲く花がある。といっても、雑草のたぐいである。早春に咲く雑草と言えば、けれどもこれしかない。いち早く日当たりのよい道ばたや田畑の際に咲き出すからである。
 花は小さいが、のぞき込んでよく見ると、エキゾチックな青色にムラサキの筋が幾条も入っている。この青色はあまり日本的な雰囲気をしていない。それは当然かもしれない。この花は遠くペルシャから渡来した花とされるからである。学名で言おう。ヴェロニカ・ペルシカである。ラテン語で書けばVeronica persica。本来の読み方は「ウェロニカ」と清音であるが、通俗読みをしておいた。それには理由がある。

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ヴェロニカ・ペルシカ。突き出た2本の雄しべに注目。


 ◆属名「ヴェロニカ」の由来と「四旬節」◆

 「四旬節」の頃に咲くだけあって、キリスト教に深い縁のある花なのである。
 この時期、熱心なキリスト教徒ならば、ユダヤ人の長老たちによって捕らえられてから、ゴルゴタの丘で十字架につけられるまでのできごとを、イエスの「十字架の道行き」として一心に黙想しつつ祈るのである。その中の一場面。イエスが十字架をかつがされ、ゴルゴタの丘を登っていくさなか、血と汗でまみれたイエスの顔に布をあてがい、血と汗をぬぐった敬虔な婦人がいた。その布は今も、「キリストの聖骸布」と呼んで、ローマに保管されているが、そのときの婦人の名を「ヴェロニカ」というのである。
 この花の名の「ヴェロニカ」は、じつにその婦人にちなんだ名である。

 もっとも「ヴェロニカ」は属名であって、その命名のもととなったものが、この青い花というわけではない。もとになったものは、青い花の中央部が真っ赤に彩られているという。ヨーロッパの図鑑で調べてみたが、確かにそれらしい花はあるようである。けれども、手許にあるどの図鑑にも、植物誌の本にも、それらしいことは書いていないので、残念ながら確認することはできなかった。


 ◆種小名「ペルシカ」は「ペルシャの」という意味◆

 さて、ヴェロニカの属名に続く「ペルシカ」はこの花の種小名であるが、その意味は「ペルシャの」というものである(形容詞女性形)。つまり、学名をつけた人物は、この植物をペルシア原産と考えていたことを示している。その人物とは、かの命名法の祖と言われるリンネである。つまり、リンネの時代には、ヨーロッパの各地に自生するようになっていたが、そのでどころはヨーロッパではなく、遙か東方の地域、ペルシャ近辺であると思われていたことを表している。現在ではアフリカも含まれており、またユーラシアの広い範囲が原産地とされている。つまり、本当の原産地、この花の発祥の地はわからない、ということである。それだけ、繁殖する力の強い植物だと言うことだろう。ローマ時代には、ヨーロッパ各地に広まっていたに違いない。

 我が国にいつ入ってきたのかということも、じつは定かではない。
 気がついたら明治時代半ばには、この花が咲いていた、ということのようである。つまり、日本で本格的に植物調査が行われるようになって、見出されたのである。しかも、江戸時代に表された植物誌、『本草綱目』などを含めてどの書にも記載がなく、江戸時代にはたぶん入ってきていなかったと推定されているだけで、それも確証があるわけではない。考えようによっては、すでに室町時代末期の頃には入っていたという可能性もある。なぜなら、日本の中部地方以西にふつうに自生していた「イヌノフグリ」という国内産種と花の姿形、色がよく似ているからである。小さい花であることもあって、ちょっと目には区別はつけられない。そのため、いつ入ってきたのかは特定できないのである。植物図鑑などでは、明治時代に入ったとしているのも、その頃に気づいたと言うにすぎない。

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 ◆標準和名「オオイヌノフグリ」は「大犬の殖栗」◆

 「大犬の殖栗」は「大犬の陰嚢」でもよいが、こう書くと、そのものずばりである。ただし、「大犬の・殖栗」ではなく「大・犬の殖栗」である。日本在来種の「犬の殖栗」よりも花が若干大きいというところに、この命名の由来がある。
 そして、在来種もこの外来種も、その実の形が「犬の殖栗」に似ているというのである。
 ヴェロニカ・ペルシカの命名の感覚と比べると、まったくえらい違いである。日本人の命名感覚の即物主義的感性が如実に表れていると見ていいのかも知れない。もっとも命名者のリンネがすこぶる付きのというか、がちがちのというか、箸にも棒にも引っかからないような頑迷なキリスト教徒であったから、こんな学名になったとも言えるのだろうけれど。

 ちなみに、英名はこの花の仲間をそれほど明確に区別せずに、Bird's-eye、Cat's-eyeなどという名がつけられている。天上を向いて見開かれた青い目、天の青を映す目、という着想である。さらには‘eye of the child Jesus’(「幼きイエスの目」)という名もある。人の心にしみいるような透き通った青さ、ということであろうか。
 クワガタソウ属の花一般は、英語では‘Speedwell’(スピードウェル)と総称されるが、これは「よい旅路を!」というほどの意味である。“Flora Britanica”によれば、アイルランドでは、このヴェロニカ ペルシカによく似た仲間の花を、旅人の衣服に縫い付けて旅路の無事を祈ったという。道ばたにふつうに咲いて、天の青を映す花は、道行く人の幸運を祈る花であったようである。 また、花ごと乾かしてお茶にしたともある。健康茶だったようである。

 どうも日本人とは何から何まで感覚が違う。


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横から見ると、2本の雄しべがよくわかる。

 ◆和属名「クワガタソウ属」は2本の雄しべから◆

 さて、最後に、日本語属名である「クワガタソウ属」の命名の由来を記しておこう。
 「クワガタソウ属」の「クワガタ」は兜の前面に付いている「鍬形」と呼ばれている2本の角のようなものに由来する。これは、クワガタソウ属の花の特徴である、花の外までぐいと突き出た2本の雄しべを指しているのである。
 花をのぞきこむと、雌しべ一つ、雄しべは2本である。また、離弁花に見えるが、深く四裂する花びらは、もとのところで一つになっている。つまり、合弁花である。


 また、日が出ないときは、花は閉じている。晴れた日の朝早く見てみると、少し寝ぼけまなこで目を開きかけている花がたくさん見られる。わりあいお寝坊さんである。日差しの日中は花をいっぱいに開いて、「虫さんおいで」と呼びかけているが、この花、虫媒花であると同時に、自家受粉もやってのけるというなかなかのくせ者。日が沈むと花が閉じるので、その閉じるときに、昼間成熟した雄しべの葯からこぼれ出る花粉が雌しべの柱頭に触れて、受粉完了というわけである。
●ツツジ科の木々にはおいしい実がなる●

 この時期では、山の秋から少し遅れてしまったが、秋の実りのことを少し。
 といっても、ツツジ科に限ってみよう。
 マタタビの仲間のサルナシはキウイフルーツように甘酸っぱくておいしいし実をつけ、アケビの仲間のアケビやミツバアケビ、ムベなどの実のほのかな甘さというように、秋の山には、おいしい実りが少なくないが、ツツジ科にも、甘酸っぱい漿果(液果)をつけるものが多いのである。


 ◆ツツジ科の甘酸っぱい実をつけるVacciniumの一属◆

 ツツジ科の中で、この一群は小粒ながら甘酸っぱい実をたくさんつける。日本語属名は「スノキ属」。ラテン語属名はVaccinium(ウヮッキニウム)だが、その由来ははっきりとはわかっていない。一説には雌牛の意味のvacca(ウヮッカ)に由来するというが、なぜ雌牛と関連するのか、まったく不明である。あるいは「牛痘疹(ぎゅうとうしん)」の意味であるvaccinia(ウヮッキニア)を連想させる特徴を持つものが、ヨーロッパやアフリカ原産のこの仲間にあるのか?
 もう一つの説は、漿果(液果)を意味するbacca(バッカ)からの転訛であるというものであるが、こちらは、これらの仲間がいずれも漿果をつける木々であることから、何となく信じやすい。ラテン語の‘v’は「ウ」の発音で‘u’と通有する音である。「ウ」の発音から「ブ」の発音への転訛はあるいは比較的容易に起こるといえるかも知れない。
 実はぼくは、こちらの説を何となく信じている。これはしかし、漿果をたいへん好むというぼくの趣味からの偏りかもしれない。


 Vacciniumの代表格はコケモモである。高山や北海道の丘陵地でコケモモはクマさんの大好物だと言うことでよく知られている。けれども、これがなかなか食べ時を判断するのが難しい。おいしいのは、リンゴのような味がするのであるが、そこまで待てずに食べることが少なくない。まだ薄赤い未熟の実は、酸っぱいなどというより渋いだけである。
 和名はコケモモであるが、学名はVaccinium vitis-idae(ウヮッキニウム ウィティス-イダーエ)で、「イダ山のぶどう」という意味である。「イダ山」は、クレタ島にあり、ギリシア神話ではジュピターが育てられたといわれている山である。その山のぶどうというわけであるから、古代ギリシア以来、おいしい実とされてきたのであろう。あるいはこの実から果実酒がつくられたこともあるのかも知れない。


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コケモモの実: 熟しすぎかな? と思えるくらい真っ赤に熟している。

 写真はよく熟して真っ赤になったコケモモである。これくらい熟していれば、甘い。クマさんはこのような赤い実を好んで食べる。ぼくは、これよりほんの少し若いものを好んで食べる。しゃりしゃりとして、リンゴのような歯触りのあるほうがぼくは好きである。

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オオバスノキの黒紫色の実:おいしい実である。

 同じVacciniumでは、スノキ、オオバスノキ、ウスノキ、クロマメノキ、クロウスゴなどが、秋のやってきた山を実感させる。スノキは「酢の木」で、 別名「コウメ」と呼ばれるほど酸っぱいが、実は黒い。オオバスノキは「大葉酢の木」で、葉が大きい。この実も熟すと黒っぽい紫色になるが、こちらのほうが甘みが多く、おいしい。ぼくはスノキは食べずに通過しても、オオバスノキは通過できない。
 よく似た名前のウスノキは熟すと真っ赤になる。いかにも漿果らしく、見るからにジューシーな実である。これも酸っぱいだけでなく甘みがある。漢字では「臼の木」であるが、これはたぶん当て字であろう。


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ウスノキ:赤い実は甘酸っぱい。学名はVaccinium hirtum。
hirtum(ヒルツム)は、「毛むくじゃらの」という意味で若枝に
二条の毛が生えていることから。

 クロマメノキは熟すと濃い紺色の実となり、うっすらと白い粉をふくので、いかにも甘そうな実に見える。しかも、栄養環境の貧しい土壌でも育つので、湿原の周囲や火山土壌などにも他の植物に優先して大きな群落をつくる。
 学名はVaccinium uliginosum(ウヮッキニウム ウリギノースム)。種小名「ウリギノースム」は「湿地に生える」「沼地に生ずる」という意味で、その主な生育地を示している。
 この実はうまい。
 ぼくは、この実の一大群生地を知っている。その群生地で実のなるときに出っ会してしまうと、ぼくはまったく動けなくなる。その低木の群落の中にどっかりと座り込んで、むしゃむしゃと食べる。一時間くらいは食べているか。ついでに弁当をかき込む。ぼくは真っ昼間に食べるが、クマさんたちは昼間は隠れていて、朝早くか夕方になってから食べに出てくる。ぼく一人では当然食べきれないから、残りはクマさんのものである。


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クロマメノキの群生地。場所はナイショ!。
この一帯はクロマメノキ一色となるのである。


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クロマメノキの実:表面に白い粉が吹いている。
「うん、うん、これが食べ頃!」


 ところで、高山の湿地にはツルコケモモというものがある。
 この実も食べられるが、同じコケモモの名はついていても、属は異なり、縁は和名に示されているほどには近くはない。たいてい高層湿原のモウセンゴケの群生の中に見られる。これも貧栄養の環境の中でよく育ち、その熟れた実はコケモモよりジューシーで甘い。属名は、Oxycoccus(オクシコックス)で、「酸っぱい実」という意味である。種小名のquadripetalus(クアドリペタルス)は「四弁の」という意味で、花冠が深く四裂していて、四弁に見えるからである(ツツジ科の花は合弁花である)。


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ツルコケモモの実:高層湿原の中に、赤い珠玉のような実に熟
す。日本語属名はツルコケモモ属。福島県吾妻山の景場平で。


 ◆ツツジ科の食べられる実、シラタマノキ属◆

 ツツジ科の食べられる実をもつもう一つの仲間にシラタマノキ属がある。ラテン語属名で言えばGaultheria(ガウルテリア)。カナダの植物学者J.F.Gauthier(ゴーチエ/1708~1756)にちなんでつけられたというが、このゴーチエなる植物学者のことはぼくは知らない。
 シラタマノキ属の属名のもとになった「シラタマノキ」は、真っ白な実をつける。花も白い。その実は漿果ではなく、蒴果である。蒴果とは、果実の中がいくつかの室に分かれていて、熟すと乾く実である。このため、室に分かれているのが、実の外から容易に見えるものもある。先ほどの漿果(液果)のようなジューシーな食感を予想していると裏切られた気がする。無心で食べれば、これはこれでおいしいのかも知れないが、かなり口当たりが違うので、ぼくはそれほど好きになれない。
 シラタマノキは、「シロモノ」という別名があるが、それは「アカモノ」という同属の植物があるからである。アカモノは熟すと真っ赤になる実をつける。シラタマノキもアカモノも実は食べられるには食べられるが、先ほどの漿果と比べると味は少し落ちる。
 特に、シラタマノキは食べるとサロメチールの匂いがするので、ちょっとびっくりする。湿布薬などに使われる薬の匂いである。たしかに甘いのだが、この匂いのために、2、3こつまめばもう十分である。一方のアカモノは、甘みも酸味もなく、あんまり果実らしいさわやかな味がしないので、食べる実としての魅力は少ない。食べても害がない、というところだろうか。あるいは長い山旅の途中で、ビタミン不足を補う一助になるかどうかというところである。


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シラタマノキの白い実。サロメチールの匂いがするので、
たくさんは食べられない。福島県吾妻連峰にて。


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アカモノの実: 実の中央部がへこんでいて、よく見ると
実の中がいくつかに分かれているのがわかる。福島県
吾妻連峰にて。

2014年11月1日土曜日

●秋の山にはリンドウとトリカブトがよく目立つ●

 近頃、といってももう十年にはなる。丹沢や箱根、奥多摩、日光などに秋のリンドウがよく目立つようになってきたのは。いや、リンドウよりもふえているかに見えるものに、トリカブトがある。丹沢や箱根など関東山地のトリカブトはたいていがヤマトリカブトなのだが、秋と言えば、たいていリンドウと並んで頻繁に見る。

 けれども、リンドウが日当たりのよい草地やカヤトの尾根に多いのと比べると、トリカブトはどこか陰気だ。半陽性というか半陰性というか、まぁ見方によって呼び方が変わるというだけのことだが、まるっきりの日向にはあまり強くない。どちらかというと林床に生える。秋の日ざしがまだ強い時季にも平気で、その青紫の筒型の花冠を真っ直ぐに天に向けて花開いているリンドウと比べると、トリカブトはいかにもうら寂しいところに咲く。ちょっと光に対してはすねているような感じもしないでもない。それでいて、ひょろひょろと上背ばかりを伸ばして、日当たりのほどほどのところだとぎっしりと花をつける。
 たぶん、こういうことなのだろう。
 トリカブトはかなりの日ざしの少ないところでも、育ち、花をつける。日ざしにまったく恵まれないところでは、育たないが、ほんの少し日ざしが差し込む時間帯を得られる場所ならば、育つ。花を咲かせる。背丈が伸びないところでも、矮化植物と思わせるような背丈でとりあえず花をつけることができる。けれども最悪の場合がそれで、トリカブトにはトリカブトの好みの日向があるのであろう。つまり堅いことばで言えば、日照の条件である。その条件の幅はかなり狭い。日照はある程度。ほどほど。そして強い日射は×(ぺけ)である。
 ぼくの経験では、疎林の林下。その疎の程度もわりあい好みがうるさい。夏の直射日光は絶対避けたいが、明るい林下でなければならない。間接照明付きの落葉広葉樹林とでも言えばいいだろうか。ときおり風に揺れる葉の表裏をちらちらとひらめかせて。


 一方のリンドウといえば、これでは喉が渇こうというような枯れかけた乾いた草地に長い花茎をのばして、くねくねと草をよけながらようやく草の茂みを抜け、花茎伸びとげた最後にはきちんと太陽に向かって真っ直ぐに立ち上がる花冠である。根は深いカヤトの草むらにおおわれていようとも、日の降り注ぐ空隙までしかと伸びとげるのである。カヤトの草むらの中に空隙は少ないから、おのずと顔を出したところは山道となる。山を行き交う者にはだから、リンドウは秋の道の同行者のようにいたるところに花を突き出す。
 トリカブトは根に毒がある。蝦夷地のトリカブトの根にはヒグマも必殺の猛毒がある。アイヌはこれを矢の先に塗って使ったという。しかも、トリカブトは茎にも葉にも毒は根ほどではないにしてもある。


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ヤマトリカブト(Aconitum japonicum)


●リンドウとセンブリのこと●

 一方のリンドウには毒はない。
 むしろリンドウは良薬である。「口に苦い」というあの良薬となる。用い方はセンブリと同じ。センブリは「千振」。千回振り出してもまだ苦いという意味である。リンドウも同様、これもすこぶる苦い。漢字で書けば「竜胆」、龍の肝ほどに苦い、ということである。どちらも、地上部が枯れかけた頃の根を掘り出して天日に干す。これを煎じるとどちらもまた胃腸の薬となる。そのはずである。リンドウもセンブリも同じリンドウ科の植物。リンドウはリンドウ科リンドウ属。センブリはリンドウ科センブリ属。つまり属が違う。花もリンドウが筒型なのと比べてもセンブリは大きく花冠が四裂または五裂するため、筒型にはならない。また花冠の基部にセンブリでは蜜腺がある。


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センブリ(Swertia japonica)


 ラテン語学名も、属名はどちらも人名から。センブリ属は“Swertia(スウェルティア)”で、オランダの植物学者Emanuel Sweert(エマニュエル スヴェエルト/1552~1612)に捧げられたもの。詳しいことはわからないが、ナチュラリストの人名録には「オーストリアのルドルフ2世に仕え、この皇帝のためにヨーロッパの初期の植物図譜のひとつ“Florilegium(フロリレギウム)”=「花植物誌」を1612年から1647年に渡って出版した。」とある。
 けれども、リンドウ属の“Gentiana(ゲンティアナ)”については、いささか述べることができる。これは現在のアルバニアの地域にかつてあったといわれるイリュリアという国の最後の王の名によったものである。イリュリア王ゲンティウスは、マラリアに苦しむ自国の将兵のためにと、良薬を探しに山野を歩き、ようやく見つけたのがこの胃腸に薬効のあるヨーロッパのリンドウであったというのである。そのリンドウは、日本で見られるものと違って花は黄色。英名も“yellow gentian(イエローゲンティアン)”。学名も“Gentiana lutea(ゲンティアナ ルテア)”で、日本産のものとは種類が違う。ちなみに“lutea(ルテア)”は「黄色い」という意味のラテン語。ゲンティウス王は、紀元前165年、ローマ軍に敗れて、ローマに連れて行かれたのだという。

 日本産のものは、“Gentiana scabra(ゲンティアナ スカブラ) var. buergeri(ワル ブエルゲリ)”で、基本種“Gentiana scabra”の変種とされている。基本種の種小名“scabra”は「ざらざらした」という意味で、葉の縁に細かなノコギリ状の切れ込みが無数にあり、さわるとざらざらするところから名づけられた。この基本種は中国大陸から朝鮮半島にかけて分布し、日本産は葉の縁の微細な切れ込みが少ない。変種名の“buergeri”は“Buerger(ブエルゲル、英語読みではバーガー、「バージャー病=“Buerger's desease”=閉塞性血栓性血管炎」というのがあるのであるいは「バージャー」か。生まれ故郷のドイツ語風に読めば「ビュエルガー」か「ベルガー」あたりが近いのだろう。、だが、この病名のLeo Buergerは1879年オーストリア生まれでアメリカに渡った泌尿器科医。この変種名とはかかわりがない)”という人名の属格だが、このバーガーあるいはバージャーあるいはビュエルガーなる人物については不詳である。


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リンドウ(Gentiana scabra var. buergeri)


●トリカブトやリンドウはシカが食べない●

 シカがトリカブトを食べないのは当然である。先にも述べたように、トリカブトは毒となるアルカロイド成分を主に根に蓄えているが、葉や茎にも少量ながらある。そのため、シカは決して食べない。これは、バイケイソウやコバイケイソウについても同じで、こちらはユリ科の毒草である。春先若い葉を湯がいて食べるアマドコロと間違えて食して、瀕死の重体になる人が毎年出る。場合によっては死ぬこともある猛毒である。こちらもアルカロイドであるが、たとえば丹沢の大室山や檜洞丸、蛭ヶ岳、丹沢山などに登ってみると、頂上付近一帯にはこのバイケイソウの大群落ができているのを見る。その中にひょろひょろとヤマトリカブトが伸び出している。もう、この二種類しか見ることができないのである。
 それほど、シカの選別にあって食べられずに残されてきてしまった。

 シカはたとえばクガイソウの花などは好んで食べる。

 日光ではクガイソウがシカに食べられて全滅したことがあった。全滅したことによって、クガイソウをその幼虫が食草としていたコヒョウモンモドキが日光で絶滅した。植物のほうは種子や根が地中に残っていると、数年後、十数年後にも芽を出し花を咲かせる能力を持っているが、昆虫はそうはいかない。シカ防護柵の設置でクガイソウは日光に戻ってきたが、あのチョウは永遠に戻ってこない。あるいは他の地域で繁殖させたコヒョウモンモドキを連れて来たにしても、日光をふるさととするコヒョウモンモドキは永久に存在し得ない。


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ウラギンヒョウモン(=コヒョウモンモドキの仲間)タテハチョウ科


●丹沢ではフジアザミもシカに食べられる●

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フジアザミ(Cirsium purpuratum)


 フジアザミといえば、丹沢や箱根、あるいは南アルプスなどに見られるアザミ。アザミ属の中では日本最大の花の大きさを誇る。アザミは、一つひとつの花びらと見えるものが実は一つの花で、無数の花が集まったものが円形の頭花を形成している。その周囲に総苞片がうろこ状になったり煉瓦状になったりしてびっしりとつく。フジアザミではこの総苞片は縁に鋭い棘をもっていて、棘ごと大きく上に反り返る(というより跳ね上がった感じがする)。
 フジアザミの名は、本種が採取されたエリアがいずれも富士山麓のものであったことから、命名者のマキシモヴィッチが富士山麓の特産種とみなしたからであったが、実際は富士山をとりまく山地だけでなく、日光、八ヶ岳、戸隠などもでも見ることができる。荒れ地に咲く一種のパイオニア植物で、日当たりのよい崩壊地や砂礫地には積極的に進出する。フジアザミが常時見られるエリアはつまり、常時土壌が安定しないことを示しているとも言える。
 学名は“Cirsium purpuratum(キルシウム プルプラーツム)”で、アザミの仲間が静脈瘤(cirsion)の治療に役立ったことからつけられた属名であるという。また種小名の“purpuratum”は「紫色の」という意味で、花の色からつけられたもの。この学名をつけたマキシモヴィッチはロシアの植物学者で、日本の明治の若者、長之介の献身的な手伝いで、多くの植物標本をもとに学名を命名している。なかに「チョウノスケソウ」というバラ科の高山植物があるが、これはマキシモヴィッチが長之介を記念してつけた和名であった。学名は“Dryas octopetala var. asiatica(ドリアス オクトペターラ ワル アシアティカ”。基本種は西シベリアからヨーロッパにかけて分布する氷河期(ドリアス氷期)の生き残りといわれる花。日本や朝鮮半島、カムチャツカ、樺太には、そのアジア変種“asiatica”が分布する。日本では高山にはい登ってようやく温暖になった気候から何とか生き延びたものである。このような氷期の生き残りをレリックまたはレリクトとよぶ。
 さて、このフジアザミ、丹沢などでは、花茎の先がぶつんとちぎられて、その先の頭花がないものが、ときおり見られる。いや、かなり頻繁と言った方がいいかもしれない。シカが食べるのである。しかも好んで食べる。あの鋭い棘のある総苞片も一緒に茎の先からぶっちぎって呑み込むらしい。ぶっちぎるというのは、彼らシカたちには犬歯がないから、あの挽き臼の役割のために生まれた臼歯でかんで、無理矢理引きちぎるのである。あの棘痛くないのだろうか? ぶった切られた花を惜しむより、荒れ地に強いたくましいフジアザミに同情するより、シカの口の中の心配が先に来る。きっと痛いのだろう。ちくんと刺さったらあるいは血も出るかも知れない。それでも彼らは食べる。好んで食べる。花粉も蜜もたっぷり。フジアザミが大きな根生葉を、春から夏の強い日ざしに開いてせっせとため込んだエネルギーのすべてを注いで咲かせた花である。栄養価の低かろうはずがない。
 シカはたいてい、草原では草の種類を選ばない。いわばブルドーザー式に周囲の草をがりがりはぎとるように、ばりばりかみちぎるように無差別に食べる。栄養価を問わないのである。問わないから、たくさん食べる。大人のオスのシカなら、毎日5キロの草を食べる。けれども山の秋には草は少ない。根こぎで食べるから、残っているのはシカにはもうけっして食べることのできないバイケイソウ、トリカブト、そしてリンドウばかりなのである。たぶん、食べるものに事欠いたあげく、フジアザミの花を食べることを覚えたのだろう。同じフジアザミでも、葉は無理。葉の縁に鋭く堅く突き出している棘は、どうしたって食べられることを拒絶している。いかにも攻撃的な葉である。総苞片の持つ棘までがシカの受苦限度、忍耐の限界。葉を食べるか花を食べるか、どっちにする? と聞かれれば一も二もなく花、に決まる。
 食べられても、食べられてもまだ、フジアザミの方は受苦限度内らしい。翌年もこちらの心配をよそに、やっぱり花を咲かせてくれている。


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花を食べられたフジアザミ(丹沢表尾根で)=中央の茎の先がちぎられている。

 山の秋とシカ。
 食べられる花と食べられない花。そうして、山の植生が年々変わっていくことには、心配の種が尽きない。丹沢の鹿柵の中ではたしかに、クガイソウが復活したという報告がすでに何度ももたらされていはいるけれども、植生復活にはさらにそれにともなう昆虫やそのほかの生物たちのことも考えなければ、手を打ってよかったよかったとは言い切れないのである。
 山の秋が来るたびにやっぱり今年もため息が尽きない。