2014年11月1日土曜日

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photo:丹沢蛭ヶ岳付近のコイワザクラ 撮影=水尾 一郎 

●丹沢のコイワザクラ●

 上の写真は、丹沢の蛭ヶ岳付近で撮った「コイワザクラ」。サクラソウ科の山地種。五弁に見えるけれども、実際はもとの所で一つになっていて、つまり合弁花。その花が五裂してさらにそれぞれの裂片の先端が少し切れ込んでいる。
 栽培種のサクラソウなどと同じ仲間だが、山でこういう花を見なれるようになると、園芸品種はどこか寒々しい感じがする。うそ寒いとでもいうべきか。ピンクや白の鉢植えの園芸種は輸入されたものだそうだが、ヨーロッパに自生するものにはピンクの花を咲かせるサクラソウはない。イギリスの林下に春いち早く咲く「プリムラ」(サクラソウと同じ仲間)は黄色の花である。これもまた、スプリング・エフェメラル(spring ephemeral=春のつかの間を飾るはかないもの)の一つとして愛好される。特にイギリスの人々は春にこの花の咲くのを心待ちにするという。春を実感させるのだろう。
 日本に輸入されている園芸種のサクラソウのおおもとの花は、日本原産のサクラソウだ。日本のピンクのサクラソウはシーボルトがその標本を持ち帰って、それが基準となって、サクラソウのラテン語学名が定められた。その学名は、“primula sieboldii”。つまり、「シーボルトのサクラソウ」。それ以降、欧米では異常な人気を博して、イギリスの王立キュー植物園では、日本から持ち帰った種から栽培したこのサクラソウと、イギリス在来の黄色のプリムラをかけ合わせて、さまざまな園芸品種を開発した。同じサクラソウの仲間の日本産のクリンソウも掛け合わせに用いられたそうであるだ。そうしてつくられた園芸品種が日本に逆輸入された。
 けれども、おもしろいのは、シーボルトが標本にしたサクラソウだ。これはシーボルトがオランダ商館長とともに江戸参府したおり、途中、沼津の庄屋が趣味で栽培していたサクラソウを献上したものだったという。つまりは、ほんとうの野生種ではなく、栽培のサクラソウが基準モデルとなって、種が決定されたというもの。
 こういう例は少なくない。

 たとえばアジサイ(紫陽花)。これもシーボルトが持ち帰ったもので、彼が自分で学名を与えた。それは “Hydrangea otaksa”で、長崎でのシーボルトの愛人を「お滝さん」 と呼んだことにちなむものだと言われている。学名としては先に与えられていたものがあったため、この学名は採用されなかったが、シーボルトは日本で栽培されていた園芸品種のアジサイを生きたままオランダに持ち帰り、そこで栽培された。アジサイは挿し木でも増やせるので、ヨーロッパ各地に急速に広まった。実際日本に自生している天然のアジサイはガクアジサイで、装飾花に囲まれた本当の花がいくつも真ん中にかたまっているもの。ガクアジサイのガクはその装飾花をさしている。
 オランダやイギリスで品種改良されて装飾花だけの花となったものは、今日本に逆輸入されてセイヨウアジサイという名で花屋さんで売られている。


●ノハナショウブの学名の転倒現象●

 ノハナショウブの学名は“Iris ensata var. spontanea”というのだが、“Iris”は英語式に読めば「アイリス」。もともとは目の虹彩のことを言う。日本では「アヤメ属」と呼ばれる一属である。「アヤメ科」(“Iridaceae”)アヤメ属というわけで、カキツバタ、アヤメもこの仲間だが、同じ仲間でもイチハツとなると中国原産、黄色い花のキショウブはヨーロッパ原産で、この二つは外来種である。
 さて、種小名の“ensata”は「剣の形をした」という意味の形容詞(女性形)で、その葉っぱの形から名づけられたものだが、ここまではまあふつう。この先の“var. spontanea”がくせ者というか困り者とでも言えばいいか。はじめの“var.”は“varietas”つまり、変種という意味。母種に対して遺伝的にその形質にいくらか変異のあることを意味するが、その変種名がまことにおかしい。変種名に使われている形容詞、“spontanea”は「自生する」とか「野生の」という意味なのである。
 これは何を物語っているか。
 つまり、ノハナショウブの母種あるいは基本種とされるハナショウブは、日本人ならみんな知っているように、多様な品種をもつ栽培種だったのである。ヨーロッパ人が日本の園芸種のハナショウブを標本として持ち帰って、それをもとに学名がつけられた。ところが、日本にはその栽培種のもととなった自生種ないし野生種がほかにあった。けれども、そのことに気づいたときにはもう後の祭りだった。そこで、わざわざ屋上屋を重ねるがごとき変種名、「野生種の」という形容詞をくっつけて、お茶を濁したというか、自分たちの間違いにほっかむりした。
 この母種名と変種名は、だから本末転倒している。和名でも同様のねじれが起きているのは、ラテン語学名に引きずられたせいである。それまではたぶん、野生のハナショウブも園芸のハナショウブも、同じようにハナショウブだったのだろう。



●サクラソウの花びらをよく見ると●

 ところで、サクラソウの野生種であるが、こちらは、かつては荒川や多摩川などの川原や湿った草地にはわりあいふつうに群生していたようで、それほど珍しくはなかったようである。シーボルトに献じたのが栽培種であったことからもわかるように、江戸時代の後期にはこのサクラソウの栽培が、余裕のある階層の人々の間で流行していた。湿地の水田化あるいは川原の護岸工事やゴミ捨てなどによる荒廃で、今は東京近郊では、わずかに、荒川べりの埼玉県田島ヶ原に保護群生地が残されているに過ぎない。
 この群生地で、植物生態学の大御所、東大大学院教授の鷲谷いづみさんが、長い間、サクラソウとマルハナバチとの共生関係を研究しておられた。
 今でも、ここにお弟子さんたちが研究のためのコドラート(区画=1m四方、5m四方、10m四方などの方形の実験・観察用マス目)をつくって、研究にいそしんでおられる。サクラソウの花びらには、マルハナバチ訪花のしるしがつくというのも、その研究の成果。花びらに小さく色の失われた点がぽつんぽつんとついているが、それはマルハナバチがサクラソウの花の狭い筒部分にそのずんぐりした体をぐいっと押し込むとき、その足の爪をたててうんしょっと突っ張るからだというのである。つまり、花びらについた小さな傷跡。この傷跡は、花粉送者(ポリネーター)がその役目をしっかり果たしてくれたということを表す。花はそうして自分の役割を終える。



●サクラソウの花には二つのタイプがある●

 また、サクラソウ科の花が二形花であることは、すでにあの『種の起源』の著者、チャールズ・ダーウィンの研究で知られていて、それがサクラソウの繁殖に大きな意味を持つことがわかっていた。けれども、実際にマルハナバチの行動から実験的に証明されたわけでなく、あらゆる状況証拠から推定されていたものだった。それを実験的にはっきりと確かめることになったのもここでのサクラソウの研究からだった。
 サクラソウには、花の根元の部分の筒状になっているところのわりあい上部におしべがあり、めしべが短くて、筒の奥の方にちょこんとあるタイプの短花柱花(スラムの目型)と、おしべが筒の奥の方にあって、めしべが長く筒の入口付近まで突き出しているタイプの長花柱花(ピンの目型)とがあり、このような二種類の長さの花柱をもつ性質を「異型花柱性」と呼ぶ。そして、それぞれの花では、おしべとめしべの成熟に時間的なずれがある。ほぼ同時に咲く二つのタイプの花では、一方ではおしべが、他方ではめしべがほぼ同時に成熟する。マルハナバチが一方でそのからだにつけた花粉は、他方のめしべの頭にくっついて、受粉が完成する。その後、今度はしばらく遅れて成熟した
他方のおしべからもらった花粉を、マルハナバチは、ほぼ同時に成熟したもう一方の花のめしべの頭にこすりつける。


●環境リスク対策としての二形花●

 サクラソウの仲間は常にこうして、自家受粉を避けようとする。自家受粉とは、同じ株の花どうし、あるいはまったく同じ花の中にあるおしべとめしべの間で受粉が完成することであるから、そこからできる子孫はまるっきりの自分のクローンになる。自家受粉のほうが面倒がないだけ、エネルギーのロスも少ないのだが、自然環境に何か異変が起きたときには全員が共倒れになるというリスクもはらんでいる。サクラソウの受粉のシステムは、少々のエネルギーロスが出ても、クローンでは不可能な多様な子孫をもつことで、将来の環境リスクを分散させようという戦略を、長い進化の過程で獲得してきたということを意味する。逆に言えば、それだけサクラソウが、環境リスクの高いところにみずからのニッチを見出してきたことをも意味する。環境リスクの高いところほど、他の植物は進出しにくいから、そのような対リスク戦略をもつことで、比較的競争の少ない場所にその立地を可能にしてきたのだろう。つまりは、競争の嫌いな花あるいは苦手な種類だったとでも言えばいいだろうか。
*ニッチ=生態的地位。生物が進出しうる場所、スペース。


●ハクサンコザクラなど山地種も二形花●

 もっと高山に行けばこの仲間では最も有名なハクサンコザクラがある。妙高山、会津駒ヶ岳などあちこちに美しい群生地がある。冒頭の写真のコイワザクラも同様である。いずれはどこかでそちらの花も掲載するつもりであるが、そのハクサンコザクラもまた、この二形花。群生地のなかを延びる木道の上からではちとしんどいが、双眼鏡を使ってじっくりと観察してみるといい。朝早くにもう、花びらにはマルハナバチ訪花のしるしがついているだろうし、ピン型とスラム型の二つの花のあるのを知るだろう。ただし、どれほど近寄って見たくても、木道をはずれることは御法度である。

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