2014年11月10日月曜日


●五月の「聖母月」考●


 五月はカトリック教会では「聖母マリア」にささげられた「聖母月」です。なぜ、五月が「聖母月」になったのか、聖母と五月の関係を、ある植物の学名にヒントをもらって、考えてみました。

 ◆植物図鑑◆
 ぼくは植物図鑑を3,4種類使っています。平凡社の大図鑑、保育社の図鑑シリーズのものがメインですが、この二種類は専門家も同定に使う図鑑ですが、保育社からは、一般の植物愛好家向けのものも出されています。北隆館から出されている「牧野植物図鑑」は絵がよくないのが欠点です。ほかにも大図鑑はいくつかあるのですが、基本的には上にあげた二つが双璧でしょう。
 さて、ここで話題にするのは、保育社から一般愛好家向けに出ている植物図鑑です。タイトルは『野草図鑑』(初版1984年)。山野にふつうに見られる野草を集めたものです。これは、長田武正氏の同定と解説、奥さんの長田喜美子さんの写真という、珍しい夫婦合作の図鑑です。実際には八冊を全部を持ち歩くことは難しく、簡単に描いたスケッチや撮ってきた写真や特徴のメモ書きをもとにして、家で同定するほかありません。けれども、ここには、夫婦の植物をもっともっとよく知ってほしいという切実な願いがあふれています。好著、と言えばいいでしょうか。全八巻あるすべての巻末に、テーマごとに植物学についての解説がわかりやすく書かれているのも、好感が持てます。別冊として索引と植物用語を解説のある小冊子が付属します。
 第一巻「つる植物の巻」を開いて、その巻末を見てみると、そこには「植物入門入門観察講座1」として、葉の形態についての説明がなされています。さらにその後ろには、「植物学名の話」として、リンネによって創意・工夫された二名法や種小名のラテン語などが解説されているのです。

 本文では、各植物名にそのラテン語学名が併記され、その読み方がカタカナで書かれているだけでなく、種小名のもつ意味が簡単に書かれています。現在では、一般愛好家向けであっても、和名、別名に、学名が併記されている図鑑はごくふつうになりましたが、当時として画期的なものでした。
 と、ここまでほめあげておいて、次は問題となった学名をあげつらうことになるのですが、けれども、その学名の訳語のまちがいこそが、今回のお話しのきっかけをつくってくれたものだったのです。



 ◆学名の意味にあったまちがいがきっかけ◆

 それは、この『野草図鑑』の第4巻「タンポポの巻」でした。そこには「アキノキリンソウ」の学名について、こんな風に書かれていたのです。
Solidago virga-aurea var. asiatica ソリダゴ ウィルカアウレア(黄金の乙女) 変種 アシアティカ(アジアの)(『野草図鑑』④「たんぽぽの巻」P85)
 これは初版でのことです。あるいは、後に訂正されたかも知れませんが、その点については確認していません。最近は書店でもまったく見かけませんので、あるいは絶版になったのかも知れません。それはさておき、いずれにしてもこのラテン語学名の訳語が、今回のお話しのいちばんのポイントなのです。 つまり、この種小名“virga-aurea”の訳語に問題があったのです。
 この図鑑では、「黄金の乙女」と訳していますが、これは明らかなまちがい。実際は「黄金の笏」という意味です。「笏」とは王などが手に持つ権力や権威を示す象徴としての棒のようなものを言います。そのまちがいは、この図鑑を見た当初にすぐに気づいたのですが、ずっと今まで、五月と「聖母月」との結びつきのヒントにはならないままでいました。この間から、五月を聖母月にするには何かいわれがあったのだろうか? という疑問が、急に心を占めるようになって、はっと、このまちがいのことを思い出したのです。
 訳語のまちがいが、ぼくにあるひらめきを与えたのです。


 ◆「アキノキリンソウ」と「アキノキリンソウ属」◆


 本題に入る前に、この花のこと、学名のことをちょっと書いておきましょう。
 日本でふつうに見られる「アキノキリンソウ」はヨーロッパ北西部から大ブリテン島にかけて山野にふつうに見られる「ヨーロッパアキノキリンソウ」を母種としています。変種名は、そのアジア版であることを説明しているのです。母種から若干の変異をとげたもの、と言うのが変種名の意味です。さて、その母種の学名、“Solidago virga-aurea”は、ヨーロッパでも古くから知られた植物でした。属名と種小名による二名法を開発した、かのリンネ自身がこの学名を付していることからも、そのことがわかります。
 今、属名と言いましたが、この「属名」は“Solidago(ソリダゴ)”、日本語学名は「アキノキリンソウ属」です。この属の植物は北米大陸にかなりの種が分布しているようです。そのうちの二種類は日本でも有名ですね。
 その理由は、太平洋戦争後、米軍によって日本にもたらされた外来植物として、他の在来植物を駆逐しながら日本で大繁茂してしまったからです。今では、日本国内いたるところで、ふつうに見られる雑草となってしまっています。その代表格が、やはり黄色い花を密生するセイタカアワダチソウ(学名 Solidago Altissima ソリダゴ アルティッシマ)と、オオアワダチソウ(学名 Solidago gigantea var. leiophylla ソリダゴ ギガンテア レイオフィルラ)です。頭花の密生する様子が遠目には黄色の泡を立てたように見えると言うことから、この名がつけられたものです。、秋の野のあちこちに黄色い花を咲かせます。
 なお、「アルティッシマ」は「最も高い」という意味で、音楽用語の「alto(あると)」でおなじみの“altus(アルトゥス)”=「高い」、「深い」などの意味=の形容詞の最上級、というわけです。一方の「ギガンテア」は英語の“giant(ジャイアント)”と同じ意味です。なお、その変種名として“var.”の後についている「レイオフィルラ」は「滑らかな葉をもった」という意味です。


 ◆“virgo”=処女=と、“virga”=若枝=◆


 さて、この種小名に間違った訳をつけたことについては、ラテン語をいくらか知っている人ならだれでも、大きな理由があったということがすぐにわかります。ほかでもありません。とてもよく似た言葉があるからです。
それは、“virgo(ウィルゴ)”という名詞です。これこそが「乙女」の意味の言葉なのです。英語のァージン“virgin”に当たるものです(というより語源なのですが)。 と言えばもうわかるでしょう。
 アキノキリンソウの種小名の、“virga-aurea”の“virga(ウィルガ)”とは、ほんの一字違いなのです。しかも、この“virga”の、「笏」の意味は派生的なもので、もともとは「若枝」「挿し木」などの意味をもっている言葉なのです。詳しく書けば、「今年新しく伸びた、緑の葉の新芽におおわれた、鮮度の高い枝」ということになります。
 この名詞は“viere(ウィエーレ)”=「緑色をしている、新鮮である、まだ一度も使われていない状態である」などの意味をもつ=という動詞から派生したものです。これは想像にすぎませんが、「乙女」の意味をもつ“virgo”もまた、この動詞にかかわるものではないでしょうか。「新鮮で、未使用である」という意味も含まれているからです 。また、この動詞からは「緑の」、「若々しい」と言う意味の“virens(ウィーレンス)”や“viridis(ウィリディス)”という形容詞も派生しています。「緑の枝」が萌え出す時節にふさわしい言葉です。

 つまり、「乙女」の意味の“virgo”も「緑の新芽をもった若枝」の“virga”も同根の単語だと考えると、「聖母月」が五月とされてきた意味が分かるように思われるのです。五月はヨーロッパでは、新しい枝が伸び、新芽が伸び、あるいは花のつぼみを膨らませる季節です。“virga”の五月を、“virgo”の五月と連想し、関連づけようとするのは、人間にふつうの心理なのではないでしょうか? 日本では「聖母マリア」という呼び方がふつうですが、ヨーロッパでは「ノートルダーム」という呼び名や「乙女マリア(Virgin Mary)」などのような呼称が一般的ですから、“virgo”=乙女マリアを連想するのは不思議なことではありません。

 ◆ヨーロッパの二元論的発想と日本の一元的感性◆

 これは余談ですが、あるいは、ヨーロッパでは、「聖母マリア=神の母」であることと「乙女マリア=聖処女」であることとは、一体のものとして認識することにある種の抵抗があるのかも知れません。一種の使い分けをしているような感じを見受けます。日本人の場合はあるいは、最初から「乙女マリア」という認識そのものが欠落してしまう傾向にあるのでしょうか? 隠れキリシタンがなぞらえたという「慈母観音」には、「聖処女」のイメージはまったく付与されていませんから、案外このあたりに、ヨーロッパと日本との女性観の違いが現れているのかも知れませんね。 もともと日本人は女性の処女性を大して重要視しておらず、むしろ生産との深い関連を感じさせる母性のほうにこそ、女性の本質を見ようとしていたのかも知れません。
 ヨーロッパでは、「母性」と「処女性」とを、「永遠の乙女にして神の母マリア」としてどちらかというと二元的なものの統一体を観念としてとらえるのに対して、日本では、あるいは二元的なものの統一という発想は、生まれ得ないものだったのかも知れません。二元的なものの統一ではなく、二元的なものの一方を他方に無媒介的に吸収してしまうか、最初から統一体とすることをあきらめて、一方を完全に切り捨てて平気でいられる、という感性をもっているのかもしれません。

 このことは、日本人の自然観にも大きな問題をはらませることになった、とも言えるでしょう。対立項となる二つのものの闘争と統一あるいは止揚という発想がないために、ずるずると自然破壊が連続する、ということにおいて。

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