2014年11月3日月曜日

●渡良瀬遊水地のこと●
 ☆渡良瀬遊水地の花の話をする前に、この遊水地の歴史について語っておかなければなりません。お花の話はずっとずっと下の方に書かれています☆

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ヨシ原の広がる渡良瀬遊水地。

 ◆渡良瀬遊水地と谷中湖◆

 渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)。
 遊水池でなく、「遊水地」であるところがみそ。
 栃木県・埼玉県・茨城県・群馬県の4つの県にまたがる広大な洪水調整用の土地です。面積は東京ドームの700倍、約33k㎡もあります。遊水地を流れる川は三本。渡良瀬川・巴波川(うずまがわ)・思川(おもいがわ)の三つで、巴波川と思川が遊水地内で渡良瀬川に合流して一本となり、利根川に注いでいます。


 かつては、純粋な洪水調整地でありましたが、近年渇水対策用にと、谷中湖(やなかこ)というため池(貯水池)がつくられました。この池の造成では、貴重な湿地の植物をだめにする、ということで、植物や鳥の保護を願う人たちとすったもんだしました。日本の水田地帯で普通に見られた植物が絶滅の危機にあった中、渡良瀬遊水地は、それらの植物の貴重な保存場所になっていたのです。絶滅危惧種を滅ぼしてまで、必要なため池であったのかどうか?

 それは第二谷中湖の建設が取りやめになったことで、一つの回答が出ていると考えていいのかも知れません

 実態はというと、水の需要が最も高い夏に、この谷中湖で大量のアオコが発生するため、そのままでは生臭くて飲用には適さないのです。ひと頃は夏が来るたびに、利根川下流で取水する東京都の水道が青臭くて飲用に堪えないという問題が発生し、利根川の水が飲料水として供給されている一帯では人々からの苦情が殺到しました。青臭い水は沸かしても青臭さが取れません。当時の建設省はその原因がこの谷中湖にあることをひた隠しにしていましたが、ずっと隠し通せるものではありません。

 そのような心配を訴えてきた人々の声を無視して、国土交通省(当時は建設相)関東建設局は、すべての反対を押し切ってこの池の造成を強行してしまったのです。
 例年のようにアオコが大量発生して、この水がまったく飲料水に適さないということが明るみに出てからは、アオコが出ないようにと、しょっちゅう池を撹拌して酸素を供給し、泥を浚渫しています。風力エネルギーを部分的に用いているにせよ、そのために膨大なエネルギーコストがかかっています。東京都のために、高いコストの飲用水を供給している、というわけです。
 当時の建設省は「第二谷中湖」の造成を計画していましたが、それはさすがに取りやめになりました。「第二谷中湖」がつくられていたら、この貴重な湿原の植物はどうなっていたでしょうね。

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渡良瀬遊水地のタチスミレ(Viola raddeana)。ヨシ原のなかで光を求めて立ち上がったためでしょうか? 背高のっぽのスミレですが、花の形はツボスミレ(ニョイスミレ)のタイプです。


 ◆植物のシード・バンク◆

 渡良瀬遊水地は洪水時の湛水効率を高めるために、第一調整池から第三調整池まで三つの区画に分けてあります。谷中湖があるのは第一調整池で、国土交通省は第二調整池にも人造湖をつくろうとしたのです。今は人造湖をつくるとは言わなくなりました。現在は、第二調整池全体にわたって50センチほど掘り下げる、ことを計画しているようです。現在の表土を掘り返すことで、現在地中に眠っている植物の種子がどのような目覚め方をするか、つまり、果たしてうまく芽を出して育ってくれるか、種子を付けてくれるかなどということを、少しずつ試行しながら、渡良瀬遊水地の植生をいっそう価値あるものにしたいということが目的であると言います。それはたしかに大義名分としてなかなか説得力のある主張ではありますけれども、それが最終的に現在の表土のすべてをはがすことになるのですから、よほどの慎重さが要求されるでしょう。現在の表土をすべてはがしてしまえば、その表土の植生に依存している昆虫や鳥たちが、大きなダメージを受ける心配があるからです。表土をはがしたあとに、思惑どおりに新たに植生が再生するとしても、植物相が現在とまったく変わってしまう可能性も棄てきれません。

 また、うまく元のように植物相は復元できたとしても、あるいはいっそう豊かになったとしても、以前そこに生息していた昆虫や鳥たちが戻ってくるという保証はありません。行政は植物が復元すると、「復元成功」とはやし立て、自画自賛しますが、よく観察していると、以前はそこにあふれていたチョウやトンボがまったく姿を見せないことに気づきます。多くの昆虫たちがそこで滅んだのです。そこに巣を営んでいた鳥たちもまた多くは戻ってきません。いったん消滅してしまった以前の植生に依存していた鳥や昆虫たちは、一時的にせよ行き場を失ってしまいますから、ほとんどがだめになってしまうのです。行動半径の小さいものほどダメージは大きいのです。
 この一帯は水面下に沈むことがたびたびあるため、ウサギやネズミなどの小動物はもともと生息していないらしいのですが、鳥類や昆虫類には大きな損害が出てしまう心配があります。特に昆虫類については、日光や丹沢などですでに実証されているように、たとえ植物相が昔のように復元できたとしても、もともと生息していた昆虫が姿を見せなくなることは明らかなのです。
 その一例をあげておきましょう。日光でも丹沢でも、鹿の食害によってクガイソウが一時は完全に絶滅したと思われていましたが、ここにもシード・バンク(少しあとで説明します)は有効に機能して、鹿の食害を減ずることに成功してほどなく、次々にクガイソウが復活し、小さな群落をつくるまでになりました。けれども、このクガイソウを食草としているコヒョウモンモドキというチョウの一種は、この二つの地域ではまったく見られなくなり、現在ではこの両地域のコヒョウモンモドキは、クガイソウが一時的に姿を消したとき、食草の途絶によって絶滅したと信じられています。 チョウは特に、その幼虫時の食草が限定されていますので、被害をこうむることが多いのです。


 一方植物というのは、人間が考える以上に融通無碍なところがあって、かなりの環境変化にたえうる場合があります。しょっちゅう人間が掘り返している場所のほうが、かえって繁栄する植物も少なくありません。田んぼの畦などに生える、いわゆる田んぼの雑草にはその傾向があります。田んぼの植物はですから、長く人間の耕作に寄り添って生きてきたのですが、近代、特に戦後になって田んぼにたくさんの除草剤が撒かれることによって、今では各地で絶滅してしまったり、その危機に瀕していたりしています。

 ところがその田んぼの雑草たちの種子が旧谷中村一帯の地中に眠っているらしいのです。少し後で書きますが、この渡良瀬遊水地は、その昔、と言っても明治のはじめの頃までのことですが、豊かで穏やかな農村生活が営まれていました。そのような農村の自然が失われたのは明治時代半ばを過ぎたころのことです。それは、まだ除草剤などが使われていない時代の、農民には草取りの大変な時代でありました。それだけに、渡良瀬川が涵養する有数の穀倉地だった谷中村の地中には、水田耕作時代に人間に寄り添って生きていた多様な雑草たちの種子が驚くほどたっぷりと残っていると考えてよいのです。
 このように、地中にさまざまな種子がたくさん眠っている状態を「シード・バンク」と呼びます。seed bankです。直訳すれば「種子銀行」。このなかにはきっと、今、農薬によって絶滅の危機にある植物の種子もたくさんあることでしょう。それらの植物の種子たちは、地中深くに日も当たらず空気も得られないまま、真っ暗な中でじっと静かに眠っているのです。再び日の光や空気に触れることができる日まで、本当に、本当に文字通り眠っているのです。
 おかげで、渡良瀬遊水地では、旧建設省以来の掘り返し好きの官庁の存在が、そのように旧谷中村時代からじっと地中に眠っていた植物をよみがえらせてきました。谷中湖の造成中には、掘り返された場所に一時的にミズアオイの大群生が見られたといいます。けれども、それらは湖が造られてしまったために、今ではすっかり姿を消してしまいました。あるいはまた、掘り返し好きたちが、人々の心配をよそに工事をする土壌から、美しい花々が目を覚ますかも知れません。なんとも困った話です。よみがえらせてくれたら、そのまま保存・維持できるようにしてくれればいいのに、そこまでは考えてくれません。谷中湖のように湖岸から何からコンクリートで覆ってしまっては、植物にとっては本当に「困苦履ィ塗」。種子を地中に残すことすらできません。人々がむやみな土木工事に反対するのは、それが結果として、豊かなシード・バンクの一方的な消耗になってしまわないかと恐れるからでもあるのです。ほんの一時のむなしい復活でしかないのなら、旧谷中村時代の水ぬるむ穏やかな稲田の夢をむさぼっている種子たちを、ずっと地中に眠らせてやっているほうがよほどいいのかも知れません。

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コバノカモメヅル(ガガイモ科)。これも渡良瀬遊水地に見られる。


 ◆官民のサイトなど◆

 渡良瀬遊水地の情報と言うことで、官民共栄のサイトと官のサイトとを紹介しておきましょう。残念ながら、客観的なあるいは科学的な根拠に基づいて行動し、主張するというような、われわれの信頼に足る「民」のサイトはないようです。
(「渡良瀬遊水地を守る」と標榜している団体はあるにはあるのですが、その行動や主張は、保全生態学や環境保護の立場からは、かなり批判を受けていると言うことです。渡良瀬遊水地は、人間がつくりあげた湿地帯ですので、人間とのかかわりがなければ維持できません。毎年ヨシ焼きをするのもこの一帯の植生保護のためですし、一定のシステムでときどき掘り返してやることも重要なことのようです。)


 まず「官民共栄」のサイトです。
 そのタイトルもそのものずばりの「渡良瀬遊水地」。


  http://www1.odn.ne.jp/~aan53170/wtrs/

 このサイトの運営者は「渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団」というもので、「アクリメーション」とは水に親しむリクリエーションとでもいう意味の官による造語です。官民共同の、つまり第三セクターの観光振興財団ということになるでしょうか。官が造った谷中湖の運営・管理が最大の、あるいは唯一の業務です。

 もう一つは官が開設しているサイトです。こちらのサイトの運営者は、国土交通省関東建設局利根川上流河川事務所です。
 サイトのタイトルもやはり、同じように「渡良瀬遊水池」。

 けれどもちょっと違うのは、「遊水池」の「池」の字。
 「地」でないところがみそです。きっと官民のほうのサイト名、「渡良瀬遊水地」をちょっとだけ意識しているのでしょうね。そうそう、ちなみに先の「渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団」が運営する「遊水池会館」は、これも「地」ではなく、「池」の字を使っています。まぁ、こんなことはどうでもいいですね。
 国土交通省出先機関のURLは次のとおりです。


 http://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/watarase/

 ◆足尾鉱毒問題と利根川改修◆

 「谷中湖」という名前から「谷中村事件」を連想できた人はあまりいないでしょう。あの田中正造氏が命がけで守ろうとしたあの谷中村にちなんでつけられた名前なのです。


 足尾銅山の鉱毒問題を解決しようと、当時の日本政府は、この旧谷中村を中心とする一帯に、鉱毒物質の沈殿用の土地を造成することにしたのです。鉱毒対策用に渡良瀬川の水を一時的に遊ばせる土地、という意味で「遊水地」とされたのです。旧谷中村住民全員が、当時の土地収用法に基づいて強制退去させられたのは、1907年(明治40年)6月のことでした。翌明治41年には、谷中村村域全体が河川地域に繰り入れられ、地図上からも谷中という名さえ消え去りました。 

 明治に入って、政府から足尾銅山の権益のすべてを譲渡された古河市兵衛(ふるかわいちべえ)は、巨大な投資を行って銅鉱山の近代化を行い、さらにまた近代的精錬所を同地に建設したのです。これが足尾鉱毒問題を大きな悲劇にまで拡大・深刻化して、旧谷中村住民を追い詰めた最大の原因です。
 足尾銅山は江戸時代よりこの方、手作業で採掘されてきましたが、元禄年間をピークにして、その量は減少の一途をたどっていました。その間、鉱毒が流域全体に及ぶような大きな問題は出ませんでした。渡良瀬川中流域には沼沢も多く、それらの湿地が洪水時には自然遊水池(氾濫原)となって、もし鉱毒が流れ出ていたとしても、これらの沼沢地に滞留する間に沈殿していたと考えられます。さらに江戸時代末期には在来の鉱脈が掘り尽くされて、ほとんど休山状態となっていましたから、その点からも、大きな問題になることはなかったのです。


 その渡良瀬川の流路は、今のように利根川に流れ込むのではなく、かつては他の川を合わせながら江戸湾に流れ込んでいました。名称も太田川と言っていました。今の江戸川の流路がそれに当たります。江戸時代の1621年(元和7年)、徳川幕府はそれまで有数の暴れ川として流路の定まっていなかった利根川をこの渡良瀬川に合流させます。水田耕地を拡大するためとも、江戸への安全・確実な運送路を確保するため、とも言われていますが、そのはっきりした理由は解明されていません。なぜ、徳川幕府がこの工事を命じたのか、未だに謎の部分が多いというのです。
 というのも、この流路変更の後に、江戸幕府は、下流を流れていたまったく別の系統の流れ、常陸川(ひたちがわ)と呼ばれていた流路へと、利根川を導く大工事を続行しています。つまり、利根川は、ひとつは渡良瀬川に合流させて江戸湾に、もうひとつは常陸川に流れ込ませて、現在のように千葉県銚子市と茨城県神栖市との間で太平洋に注ぐようにしたのです。しかも江戸川を分けた後の利根川中流域には、鬼怒川や小貝川などの中小河川をいくつも流れ込ませて、流量を大幅に増やしています。これは利根川を水運に利用しようとしたからだと考えられます。たとえば、東北太平洋岸の港で舟に積み込んだ物資は、銚子で利根川に入り、さらに江戸川分流点から江戸川を経由すれば、舟だけで江戸に物資を運べます。
 その結果、舟を走らせる流量と川幅を持つ河川の出現は、同時に多くの沼沢地の干拓を進展させることにもなり、洪水湿地(氾濫原)を減少させることにもなりました。


 明治になると、この江戸川分流を残したことが、鉱毒沈殿のための沼沢地の減少とともに、政府の大きな懸念材料となります。渡良瀬川流域一帯で足尾鉱毒問題が明らかになってきたからです。
 足尾銅山から流出した鉱毒を含む水が、東京の市街地にまで流れ込むのです。その東京湾の河口付近の行徳には、重要な塩田地帯が広がっていました。まだ輸入岩塩から工業的に食塩を精製する時代ではありませんでしたから、塩田は貴重でした。その貴重な塩田までもが鉱毒汚染の危険にさらされることになったのです。さらには、東京湾の魚介類にも深刻な鉱毒被害が出ることも予測されました。
 おりしも日本は重工業化が国家的政策として推進されていました。日本史などで学ぶように、日本は当時、「第二次産業革命」と呼ばれている時代に入っていました。日清戦争の賠償金をもとに官営製鉄所が九州八幡に操業を開始したのは、1901年(明治34年)のことです。そのような日本の重工業化と軌を一にするように、足尾鉱毒問題が深刻化していくのです。銅は電線などの通電体として、電気産業全体に欠かせない金属でありましたから、いっそうの増産が要請されたのです。
 その一方で、東京を中心とした国内の鉄道網の整備が進み、川や運河に頼らない物資の迅速かつ大量の運搬が可能になってきてもいました。舟運のための江戸川分流の意味はほとんどなくなってきていたのです。


 ◆足尾銅山再開発と近代化成功の陰に◆

 先ほども書きましたが、足尾の銅山は元禄年間以降、産出量が徐々にダウンしていました。「足尾千軒」と言わるほどの繁栄は江戸時代初期の延宝年間のことでしたが、足尾が大いに栄えたのはほんの100年ほどで、江戸時代末期には鉱脈は涸渇して、ほとんど衰退していました。
 けれども明治時代に入って事態は一変しました。この足尾銅山を明治政府は民間に払い下げたのです。明治政府に、もう有望な鉱脈が期待できないと言われていた足尾の銅山を再開発する財政的余裕がなかったのです。この鉱山に目を着けたのが古河財閥の創始者古河市兵衛(ふるかわいちべえ)でした。彼は1877年この銅山の経営に乗り出します。
 1881年になると、欧米から導入した新しい探鉱技術によって、足尾に次々と有望な鉱脈が発見されます。戦後にまで至る足尾の繁栄のもとづえができたのです。それは日本国家の産業立国には大いに貢献するものでありましたが、このことが足尾の山々に源を発する渡良瀬川に大きな災厄をもたらすことになりました。
 大量に川に流される選鉱後の鉱毒混じりの土砂。1889年に欧米から導入された機械選鉱の技術はその量を膨大なものとしていました。そして、足尾銅山に直結して建設された当時の最新鋭の精練設備です。1893年、ベッセマー転炉法による大規模精練が可能になったため、排出される亜硫酸ガスも急激に増大して、足尾の山の木々を一気に枯らしてはげ山にしていきました。また、水と反応してできた硫酸の混じった排水が渡良瀬川に流され続けたのですから、流域の人々はひとたまりもありません。渡良瀬川の水を飲用にすれば、それは人々の体をむしばみます。渡良瀬川の水を引いた田では稲がどんどん枯死します。洪水で押し出された泥水に混じっている銅とその化合物、また硫酸は稲の枯死する範囲をぐっと拡大します。


 その恐るべき洪水が渡良瀬川流域一帯を襲ったのは、おりしも日本ではじめて行われた衆議院選挙、それに続く第一回帝国議会の開かれることになる1890年(明治23年)の夏のことでした。渡良瀬川流域を襲った大洪水が栃木県・群馬県に甚大な被害をもたらしたのです。それまで、たとえば1885年(明治18年)には「朝野新聞」によって、渡良瀬川で鮎の大量死があったことが報道され、その原因として足尾銅山からの鉱毒が示唆されるなど、足尾の鉱毒問題が少しずつ話題になりはじめてはいましたが、人々の関心はそれほど高くなかったのです。けれども、もう事態は容易ならざるところまで来ていました。

 先の第一回帝国議会議員選挙で初当選を果たしていた田中正造は、このことが重大かつ緊急の社会問題、そして政治的問題であることをただちに理解したのです。洪水が起こったのは1890年8月。水田被害の深刻さが判明したのはその少し後でしたので、11月に開かれた第一回帝国議会には、田中正造の調査は間に合いませんでした。そこで、彼は、現地での詳細な調査をもとにして、翌年の第二回帝国議会で質問に立ちます。田中正造の足尾鉱毒とのたたかいの始まりでした。

 田中正造が渡良瀬川の鉱毒問題で、政府を責め、足尾銅山の操業停止を求めたことについては、歴史の教科書にも公民の教科書にも載っています。それは日本の反公害闘争の最初であり、原点であるからです。日本は、この公害の悲惨さをまっすぐに真摯に受けとめなかったために、戦後、水俣湾や阿賀野川の水銀汚染を引き起こしただけでなく、それを長く放置して被害を拡大させました。神通川のカドミウム汚染、四日市の大気汚染と、日本は常に企業寄り、産業寄りの姿勢をとって、その被害をいっそう深刻なものにしてしまいました。
 今も、谷中湖を運営する「渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団」からは、反足尾鉱毒闘争のなかでの旧谷中村民の悲惨で過酷な日々は語られることはありません。何事もなかったかのように、豊かだった谷中村の生活が振り返られるだけです。そこにあるのはあくまでも楽しい谷中湖、明るい谷中湖なのです。その暗い過去は谷中湖の「アクリメーション」のなかですっかり水に流されてしまったかのようです。たぶんこれが「行政」=「官」というものなのでしょう。
 だからこそ、「民」というものがどれだけ大切かが、大切にされている社会であるかが問われるのです。


 ◆田中正造◆

 田中正造は帝国議会のなかでの反公害闘争に失望します。時の政府が田中正造の質問を無視する姿勢を見せ始めたからです。1900年、田中正造は時の内閣総理大臣山県有朋に、「亡国に至るを知らざれば之即ち亡国の義につき質問書」を提示しますが、山県首相は「質問の意味がよくわからない」と言って、最近のどこかの首相のようにまるで何処吹く風といった対応をするのです。政府の無視の姿勢は明らかでした。国会での活動に限界を感じた田中正造は、翌年10月衆議院議員を辞任すると、同じ年の12月10日、帝国議会の開会式の帰りだった明治天皇の車列に飛び出し、足尾鉱毒問題解決のための「直訴」をしようとします。けれども、その場で警護の警察官たちに取り押さえられて、その「直訴」はなりませんでした。
 この天皇への「直訴」をどう見るかは、評価の分かれるところですが、政府は田中正造のこの行動をさえまったく無視しようとします。何事もなかったかのようにその日のうちに田中正造を釈放するのです。彼を「不敬罪」などの罪に問い、刑事裁判となれば、鉱毒被害の凄惨さがいっそう天下に白日のものとなります。「不敬罪」であれば天皇の耳にも入らざるを得ません。そうすれば「直訴」成功と同じ効果があります。田中正造のねらいはそこにもあったのでしょう。そして政府はそれを最も恐れたのです。「くさい物には蓋」のきわめて伝統的な処置でした。


 田中正造については多数の伝記、研究書が出されています、また、田中正造自身の演説・国会質問・著述などを網羅した『田中正造全集』が岩波書店より刊行されてもいます(全20巻、1977~1980)。
 以下に少し掲げておきましょう。


 岩波書店からは上の全集刊行以降に新たに発見された書簡などを集めた『亡国の抗論-田中正造未発表書簡集』(2000)、『田中正造』(由比正臣著、1984年)などが出版されています。また、晶文社からの『田中正造伝』(ケネス・ストロング著、川端康雄訳)は、英語圏向けに英文で書かれた著作の翻訳です。文芸書では、大鹿卓による『渡良瀬川』・『谷中村事件』の二部作があります(どちらも1972年新泉社にて復刊)。城山三郎の『辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件』(1962年、角川文庫)、立松和平『毒-風聞田中正造』(1997年、東京書籍)などがあります。また児童向けには、児童文学作家大石真の『たたかいの人-田中正造』(1971年)という伝記が出されています。 中学・高校生のためには岩波ジュニア文庫から『田中正造』(佐江衆一著、1993)が出ています。
 このほか、『田中正造 21世紀への思想人』(小松裕著、筑摩書房、1995)は、田中正造の思想的有効性が現代に力をもっていることを証明しようとした著作。
 地元(宇都宮)の出版社、随想舎からは大手新聞社の宇都宮支局が連載したシリーズを単行本化しています。朝日新聞社宇都宮支局編は『新田中正造伝』、毎日新聞社宇都宮支局は塙和也との連名で『鉱毒に消えた谷中村 田中正造と足尾鉱毒事件の100年』、読売新聞社宇都宮支局編では『渡良瀬100年 自然・歴史・文化を歩く』。
 どうです。こうして並べてみると、各新聞社のスタンスの違いが際だっているとは思いませんか? 人物論あるいは評伝の朝日、公害闘争史の毎日、文化と自然のなかにすべてを嵌め絵のように組み込み、公害史としての焦点をぼかした読売、とでも言えばいいでしょうか。


 田中正造伝の最も古いものは、木下尚江になる『田中正造の生涯』です。この伝記は、先のケネス・ストロングが田中正造伝を執筆するきっかけとなったものだと言います。また、田中正造に関して書かれたものの最も古いものは、、荒畑寒村の『谷中村滅亡史』(平民書房1907年-岩波文庫から1999年に復刊)で、多数のページが田中正造について割かれています。

 さて、田中正造について、少し書いておきましょう。
 彼は、まだ日本が明治を向かえるずっと前の1841年(天保14年)、下野国安蘇郡小中村(現在の栃木県佐野市小中町)に、名主の家の子として生まれました。
 明治の世になる直前、彼は領主六角家に政治的な要求を出して捕まり、投獄されます。明治の世になって恩赦により釈放されますが、1871年には任地の秋田でまた投獄されます。殺人の疑いでした。真相はどうやら、上司によって讒訴されたということのようです。濡れ衣でした。その詳しい理由はわかっていませんが、田中正造の性格から考えると、彼が上司の不正をきびしくただそうとしたか、あるいは住民の側に立って激しく上司と対立したかしたために、かえって強い憎しみを買い、報復を受けたということのようです。
 1874年、ようやく冤罪が晴れて釈放され、生地の小中村に戻ります。


 田中正造の政治への関与は、彼が地区の区会議員になり、さらに創刊されたばかりの「下野新聞」の編集長になったころからでしょう。1879年(明治12年)のことです。彼は自由民権運動に賛同して、新聞紙上で強く国会の開設を訴えています。1880年には栃木県議会議員となりますが、時の栃木県令(今の県知事です)三島通庸(みしまみちつね)と対立して、今度もまた加波山事件(自由民権運動による武装蜂起事件のひとつ)に関連ありとして逮捕されます(1885年)。三島通庸と言えば、自由民権運動を目の敵のようにして弾圧したことで知られている人物です。当然田中正造の彼への反発も強かったことでしょう。
 けれどもわりあいあっさりと釈放されます。彼を冤罪で罰することは、あるいは民衆が許さなかったのかも知れません。その証拠に、翌年彼は、栃木県議会議長となっています。
 時の理不尽な権力とは激しく対立する一方で、人々の人望を集めていたことが、このことからも知られます。無私の精神が人々に信頼されたからでありましょう。
 この権力とのたたかいの無私の姿勢は彼の人生を貫いていました。
 その彼の人望、指導力、清廉潔白さは、時の政府にも手の打ちようがなかったのでありましょう。ために、彼が居をそこに移してまでたたかい続けた場所、そのかんじんな場所を奪い去ることを画策するほかなかったのです。最も豊かであっただけに、その鉱毒被害が最も悲惨な生活へと追いこむことになった谷中村。村民は田中正造の優れたリーダーシップで一つにまとめ上げられますが、巧妙になだめすかされ、脅されて一人またひとりと切り崩されていきます。
 一連の鉱毒事件の中で最も被害が大きく、そのために最も鉱毒反対運動が激烈だった谷中村だけが政府の最終ターゲットにされてしまったのです。谷中村を周辺の村から孤立させることが、政府や栃木県の鉱毒反対闘争つぶしの最も強力な手段となります。そして、十分に孤立したところで、一気に廃村に追いこむ。その計画はひそかに進められ、実行に移されたのです。
 先にも書きましたが、1907年(明治40年)、谷中村全域に「土地収用法」が適用され、残されていた家屋が無理矢理破壊され、村民全員の退去が命ぜられました。翌年には、旧谷中村の村域が河川地域の指定を受け、地図上からまったく谷中村の名称は消え去りました。


 田中正造は、1904年(明治37年)ころから、実際に旧谷中村に住み、ここから鉱毒反対運動を指導していました。谷中村廃村後もその地に住み続け、絶望的な状況の中で反対運動をさらに続けます。けれども、1913年(大正2年)、死期を悟った彼は、関東の反対運動支援者の家々をまわって最後の挨拶をします。彼のいなくなった後も、反対運動を支援してもらいたいという一心からでした。その途次、支援者の一人の家で倒れ、その1ヶ月後に亡くなります。死因は胃がんであったと言われています。1913年9月4日のことでした。享年71歳。

 ◆『谷中村滅亡史』◆

 繰り返しになりますが、谷中村は、その全域が1907年6月29日「土地収用法」の適用を受けます。このときまで谷中村から梃子でも動かないと決めていたわずかな村民(16戸)が、家屋の強制破壊を受け、強制的に暴力的に退去させられます。
 その同じ年の8月25日この『谷中村滅亡史』が出版されます。わずか二ヶ月の間に執筆され印刷され製本されたのです。当時、機械化されていたのは印刷工程だけでしたから、その他はもっぱら手作業で行われたということを考えると、驚異的なスピードでした(かなりの誤植もあったようですが)。
 版元の平民出版は、幸徳秋水、堺利彦らが創刊した『平民新聞』ゆかりの出版社です。著者の荒畑寒村は1887年(明治20年)横浜生まれ。家業の仕出し屋を継ぐのを嫌って横須賀の海軍工廠で働きますが、そこでキリスト教にふれ、さらに労働運動に触れます。その日々のなかで幸徳秋水らの『平民新聞』が掲げた「非戦論」に感動します。彼が社会主義に進むきっかけでした。彼はまずキリスト教徒となり、それから社会主義者となって、日本の社会主義運動のリーダーのひとりとなるのですが、この頃はまだキリスト教に熱心だったようです。
 そのような荒畑寒村でしたが、1905年ころから、谷中村の鉱毒事件の取材を始めて、その記事を「忘れられたる谷中村」、「棄てられたる谷中村」などの題で雑誌に寄稿しています。また、『平民新聞』にも取材記事を連載するなど、当時の寒村の主要なテーマでありました。その取材の過程で幾度も田中正造に会い、ついには「谷中村について一書を著す」ことを、田中正造自身から懇請されます。そのことは『谷中村滅亡史』巻頭の「自序」にさらりと記されています。


 「今年六月十日、田中正造翁とともに谷中村を訪(と)う。当時翁予に語って曰く、希(ねがは)くば他日谷中村のために、一書を世に訴へよと。而して帰来していくばくもなく、谷中村破壊の悲報は来たって予の耳朶を打てり。予痛憤措く能はず、直ちに筆を執って草したるもの、即ち本書なり。
    <中略>
 ああこの一書が、予の対(むか)って谷中村問題の真相を語るの時、顧みれば谷中村は、已(すで)に滅亡してあらざるなり。稿を終えてこれを思ふ。哀愁胸に迫って、涙雨の如し。


 日付けは「「明治40年7月」とあります。6月29日に谷中村の強制廃村があったのですから、本当にその直後に執筆されたことがこの日付からわかります。

 その内容に激越な表現があるのは、彼の若さがしからしむるところなのですが、けれども、けっしてその時だけの一時的な憤怒によって勢い込んで書かれたものではないことが、この「自序」には現れています。2年間にわたる谷中村、足尾銅山などの取材活動を通じて、丹念に拾われてきた事実を背景にして、それは書かれているからです。
 その最初の部分、「緒言」から少し引用させてもらいましょう。
 当時の最も心ある青年が、足尾の鉱毒被害について、谷中村の強制廃村について、どのような思いを抱いたか。その思いの丈がここにはよくあらわれています。


 ああ谷中村は遂に滅亡したる乎(か)、二十年の久しき、政府当局の暴状を弾劾して、可憐なる村民のために尽瘁(じんすい)し来たれる、老義人田中正造が熱誠は、空しく渡良瀬川の水泡と消え去るべき乎。而してまた、流離し、顛沛(てんぱい)し、漂零(ひょうれい)し、落魄して、なほかつ墳墓の地を去るを拒める村民が苦衷は、巴波川(うずまがわ)の渦巻く波とともに亡び去るべき乎。
     <中略>
 谷中村の今日ある、けだし遠く因を鉱毒問題に発す。見よ、明治十年政府の足尾銅山を古河市兵衛に貸与するや、古河のこれを経営する、実に巨万の資本を投じ、精巧の機械を設けて採鉱に従事せり。爰(ここ)においてか銅の産出俄に増加して、ほとんど鉱業界の面目を一新したりき。しかれども世人が、この表面の鴻益(こうえき)に歓呼喝采しつつありし時、何ぞ知らん、銅鉱より出づる悪水毒屑(あくすいどくせつ)は、山林濫伐に伴って起こる洪水のために、澗谷(かんこく)を埋め、渓流に注ぎ、渡良瀬川の魚族を斃(たお)し、両岸の堰樋(せきひ)を通じて田圃に浸潤し、草木を枯らし、田園を荒廃せしめ、人は病むも医薬を求むるに術なく、児は胎むも空しく流産し、たまたま生るるあるも含むところの母乳はこれ毒水、ああ昔は豊田千里と謡はれし関東の沃野、鶏犬の声絶えて、黄茅白葦(こうぼうはくい)徒(いたずら)に茂く、終に一個蕭条索落(いっこしょうじょうさくらく)たる荒野の原と化し終わらんとは。


 このとき、荒畑寒村弱冠二十歳でありました。

 これだけの熱っぽい表現であれば、多くの人の心を、わけても若い人の心を強く動かしたことでしょう。そう。それは想像するほかありません。なぜなら、出版と同時に「発禁処分」を受けたからです。長く日の目を見なかった著書は、ようやく戦後かなりの時を経て、たくさんの人の目に触れることとなりました。

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サクラソウ。地球の寒冷期に渡良瀬川沿いに上流から分布を広げ、温暖な気候の今は渡良瀬遊水地にわずかに残るレリックのような存在。


 ◆平和な時代の平和な姿◆

 あれほどに悲惨な問題をまき散らし、いくつもの農村を破壊した足尾銅山は、さしも豊かだった鉱脈が絶えて廃鉱となり、公害の象徴のような精錬所も閉鎖されて、かつては隆盛を極めた足尾にはもう、見る影もありません。足尾がさびれてしまえばもう、足尾から新たな鉱毒物質が垂れ流されることはなくなりました。
 けれども、銅精錬所の排煙によって荒廃した足尾の山々はいまもって裸地をさらして、毎年ボランティアによる植林活動が続けられていますし、渡良瀬遊水地に沈殿してきた鉱毒物質が消滅したわけではありません。


 足尾からの鉱毒の排出がなくなると、政府は、鉱毒沈殿の役割を終えたとばかりに、旧谷中村一帯に、こんどは飲用水のための貯水池を造成しようとしたのです。東京都の夏の渇水対策として、というのがその貯水池建設の名分でした。
 結局、上に書いたように、アオコが発生しやすいなど、その水質の悪さもあって、渡良瀬遊水地は、「谷中湖」一つだけの造成に終わりました。残りの土地は洪水調整用として、その貴重な植生とともに保存されることになったのです。


 現在は、谷中湖は飲用水のための貯水池というより、レジャーのための施設の観を呈しています。谷中湖を周回するサイクリング道路もあり、またヨットやウインドサーフィンなどが盛んです。クチボソ(モツゴ)やフナなどの淡水魚類も豊富です。しかも、湖を餌づりエリアとルアーづりエリアに分けるなど、きめの細かいサービスも行われています。まぁ、言ってみれば貯水池としての利用はすこしく断念して、管理釣り場のような使い方をしていると言えばいいのかも知れません。
 
 ◆平和だったかつての村の思い出に◆

 上の方で、「シード・バンク」と言うことを書きました。
 平和だった時代の、豊かだった時代の旧谷中村時代に地中に蓄えられた無数のそして多様な種子たち。水田耕作の邪魔になると、あるいは目の敵にされ、あるいは食草や薬草として利用されることもあった植物の多くが、いつか地上に現れる時を待ってじっとしているのです。
 そして、ある日、掘り返し好きのお役所が。彼らを長い眠りから覚ますのです。それは、ある意味で過去の谷中村を語るかのようです。美しい田園風景の面影をそれはいっとき描き出すのです。それらのよみがえる花々は、旧谷中村廃村の思いのこもったある種の墓碑銘であると言ってもいいのでしょう。
 これからいくたびも、遊水地が掘り返されるたびに、村をつぶされてしまった旧谷中村の人々の悲しい墓碑銘のように、その時代に栄えた植物たちがまざまざと姿をあらわすことでしょう。その最も美しい墓誌がミズアオイでした。その写真は、次に紹介する植物のサイトの表紙を飾っていますから、ぜひ一度ご覧になってください。残念ながらぼくはミズアオイの写真をもっていません。


 そこでこのサイトを紹介することにしましょう。ぼくが最も紹介したかったサイトがじつはこれでした。
 渡良瀬遊水地の植生調査に20年以上の歳月をかけてきた植物学の研究者が開設しているサイトです。こちらは、美しい花々の写真とともに、渡良瀬遊水地の植物が紹介されています。また、渡良瀬遊水地の情景写真なども充実しているサイトですので、ホッとできる人も多いのではないでしょうか。 サイト名、URLは次のとおりです。


 「渡良瀬遊水地の植物」

 http://www.ryomonet.co.jp/mo/mo/

 自称MOさん。大和田真澄さんは、『渡良瀬遊水地の植物図鑑』の監修と解説をされるなど、渡良瀬遊水地の植物については、日本の第一人者です(ということは世界でも)。目標物のない広大なアシ原をまったく迷うことなくあちこち歩き回れるほど、渡良瀬遊水地のことは熟知されています。
 今はすでに退職されていますが、つい数年前まで障害者教育にも携わってきていた関係から、その人たちの詩や文章を紹介したページも、このサイトからのぞくことができます。

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ミズアオイ。大和田さんのサイトから、許可を戴いて転載しました。これと同じ画像が「渡良瀬遊水地の植物」の表紙を飾っています。


 そうそう、大和田真澄さんは、コーヒー豆の焙煎が趣味で、もう二十年以上も焙煎方法を科学的に研究してきています。そしてついに、その科学的に解明した焙煎技術をもって、焙煎珈琲のネットショップを開設してしまいました。まさに「病膏肓に入る」を地でいっています。
 ぼくはずっと昔から彼の焙煎のファンでしたから、今はもっぱら彼の焙煎した豆でコーヒーを飲むようになっています。その焙煎所もここで紹介しておきましょう。


 コーヒー焙煎所グランチーノ

 http://cafe-grancino.com/

 どの焙煎も相矛盾し合うような深みとあっさりさとがよくバランスされていて、後味の良さが焙煎の質の高さを証明しています。そのなかでもコロンビア・スプレモのフレンチ・ローストが特にお奨めできそうです。深炒りのくせに嫌な苦みがなく、香ばしい香りを楽しむコーヒーです。その辺の炭火焼きよりもよほどおいしいのです。これからはアイス・コーヒーの季節ですから、アイスにして飲んだり、アイス・カフェ・オレにしてみたりと、いろいろに楽しめそうです。そうそう、このコーヒーでコーヒーゼリーを作ると。。。。。ははっ、よだれが出て来てしまいました。
 値段は若干高めですが、その値段を裏切らない味と香りです。
 話がすっかりそれてしまいました。

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渡良瀬遊水地のチョウジソウ。


 ◆チョウジソウのこと◆

 ぼくがどうしても渡良瀬遊水地に行きたいと思った最初は、チョウジソウの群生地があるからでした。それにサクラソウ、タチスミレ、マイヅルテンナンショウ、たくさんの植物がぼくの心を魅了しました。
 けれどもぼくの心をいちばん惹いたのはどうしても「青い花」です。ノヴァーリスではありませんが、チョウジソウの「青い花」には鉱物の面影があるようにも思われたのです。
 その「青い花」の気品からか、かなりの盗掘が行われているようで、環境変化や土木工事のせいというよりも、相次ぐ盗掘のために絶滅に瀕しているというほうが当たっているようです。そのため、現在の生育場所を特定できるようなデータはまったく明かされていませんから、大和田さんに連れて行ってもらうほか、出会うチャンスはありません。

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チョウジソウ。離弁花のように見えるが、花のもとのところは一つになって筒状になっている。


 この植物はキョウチクトウの仲間です。キョウチクトウの仲間の多くは木本ですから、このような草本の種は珍しいのです。キョウチクトウ科は世界に約2000種があると言われていますが、日本にもともと自生するのはわずかに6種。その半分が木本で、残りが草本です。庭木などでよく見られるキョウチクトウはインド原産で、日本には江戸時代に渡来したと言われています。これは渡来種ですのでこの6種のなかに含まれません。

 自生種で注目しておきたいのはテイカカズラです。漢字で書けば「定家蔓(ていかかづら)」。藤原定家にゆかりがある、というかまつわるお話を秘めているツル植物です。謡曲『定家』では、このツルは年上の人、式子内親王(しょくしないしんのう、しきしないしんのう、とも)を恋慕して止まなかった定家の怨念あるいは妄執の怨霊と言われているのです。その怨霊が式子内親王の墓に絡みついて、内親王を苦しめているというお話です。
 謡曲『定家』の中では旅の僧がお経をとなえ、それによって絡まっていたテイカカズラがほどけて消え去ります。となえたお経は『法華経(ほけきょう)』のうちの「薬草喩品(やくそうゆぼん)」です。このお経には、「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしっかいじょうぶつ=無生物や無情の生物も、みんな仏になれる)の教えが諭されていますから、それを定家蔓に申し渡して、定家の怨霊を成仏させるのです。
 それにしても、藤原定家(1162~1241)と式子内親王(?~1201)とでは歳が違いすぎて、定家と式子内親王の恋物語はまるっきりの虚構だと言われています。物語では、式子内親王と定家が恋をかわしたのは、彼女が齋宮を退いた時からという設定なのですが、じっさいは内親王が齋宮を退いた時、定家はやっと八歳でした。
 あるいは、事実としては、式子内親王が定家のお父さんである藤原俊成の歌の弟子でしたから、定家は小さいころからよく見知っていて、幼いころからのあこがれの人であったのかも知れません。


 キョウチクトウ科の植物は、花に螺旋状にすこしねじれるような感じがあるので、そのわずかなねじれが、テイカカズラ自身の生命力の強さとともに、まとわりつく怨念のイメージを増幅したのかも知れません。スギやヒノキなどの薄暗い林床にきまってはびこるのはテイカカズラです。京都近郊の北山杉などの林床から樹幹には、きっとびっしりとはびこっていたのでしょう。謡曲『定家』でも、式子内親王の墓にまとわりつくテイカカズラをきれいに引き抜いても、翌朝にはまたぎっしりと絡みついていた、という話になっていて、テイカカズラの生命力のすごさがこの物語の背景にあることが知られます。

 その花のわずかなねじれの感じは、ツルニチニチソウという園芸品種にもよく現れています。これはヨーロッパから輸入されたもので、学名がVinca major(ウィンカ マヨール)であることから、ヴィンカなどと呼ばれることもあります。これもまたキョウチクトウの仲間です。正面から花を見ると、花びら(裂片)の配列に微妙なずれがあって、どこか素直な感じでないのが面白いところです。ヒメツルニチニチソウは、この花の少し小型のもので、学名はVinca minor(ウィンカ ミノール)といい、これも園芸用に日本に輸入されています。
 また、キョウチクトウ科の植物は毒をもっているものがほとんどで、逆にその毒が医薬品として利用されても来たようです。ツルニチニチソウも血流を抑制したり、潰瘍を抑える薬草として知られています。

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ツルニチニチソウ(Vinca major)の花。丹沢の麓ではまるで自生種のようにはびこっていた。


 チョウジソウの「チョウジ」は「丁子」のことで、つまりよく知られているクローブのことです。このクローブの実をとる「チョウジノキ」の花によく似ていることから、この名がつけられたといいます。花の感じもちょっと異国風なところがあるので、あるいはひょっとしたら、ずっとずっと昔、稲作などともに中国から日本にやってきた植物なのかもしれません。分布域も中国から朝鮮半島まで含まれますが、北海道には分布しません。 クローブのほうはハーブですが、チョウジソウのほうは毒草です。麻酔効果があるとされていますが、薬草にされたことはないようです。
 一方、学名のAmsonia elliptica(アムソニア エルリプティカ)のアムソニアは、アメリカの植物学者Amson(エイムソン)にちなんだ名だと言うのですが、どんな人かはわかりません。一方の種小名エルリプティカは「楕円形の」という意味の形容詞の女性形です。花びらが細長い楕円形であることから名づけられたようです。なお、キョウチクトウ科は合弁花の仲間ですので、花びらはもとのところで一つになっていて、それぞれの花びらは「花弁」ではなく、「裂片」と呼ばれます。合弁花の花のことを特に「花冠」と呼んでいますが、その「花冠」の途中から先端部にかけて、いくつかに分かれているからです。写真で見るとおり、チョウジソウやツルニチニチソウでは五つに分かれています(植物図鑑などでは「五裂している」と言います)。あっ、そうそう、テイカカズラの白い花も大きく五裂していて、一見するとそれぞれが独立した花弁のように見えます。

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チョウジソウを真横から見るとこのとおり、花には長い筒状の部分がある。

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